「現在の価値観で過去を裁くな」は、果たして大東亜戦争肯定論に資するか?

 「現在の価値観で過去を裁くな」という言い回しがある。文脈によって「現在」・「価値観」・「過去」・「裁く」の意味が揺れ動くので、その正当性も状況ごとに異なるが、それなりに有力に作用する事の多い言い回しであるのは事実である。
 さて、最近のネットにおける第二次世界大戦での日本の諸行動の評価をめぐる論争を見ると、この件に関して「現在の価値観で過去を裁くな」と主張する者の大半は大東亜戦争肯定論者であり、否定論者がそれに対抗するという図式になっている。だが私自身の経験から判断するに、これは随分奇妙な図式に思える。
 幼い頃の私を指導した大人達は、戦前の日本に対して「韓国を併合したり中国を侵略したりした悪い国だったが、東南アジア諸国を独立させた功績もある国だった。」という評価を概して下していた。私はそれを受け入れていた。
 だが成長した後に第二次世界大戦に関する「現在の価値観で過去を裁くな」論を学んだ際には、確かに日中戦争等に関する罪悪感は低下したが、同時にまた当時は合法だった列強の植民地支配やブロック経済や排日移民法にも同情を寄せるようになってしまった。
 五年前に書いた「植民地の正当化が切り開くもの」(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20080504/1209883710)という記事は、そうした経験があったから書けたものである。
 「現在の価値観で過去を裁こう。現在の人々の多くは植民地の独立に満足している。だから当時はパリ不戦条約に反する悪であった大東亜戦争は遡って善となる。」と主張する大東亜戦争肯定論者や、その逆の論陣を張る否定論者が、もっと出現しても良いのではあるまいか?