全話視聴計画『牙狼 -紅蓮ノ月-』(第十八〜二十話)

第十八話 星滅
 「紅蓮の月」が、本物の月が赤く染まったものではなく、安武家の祖が災いを封じるために施した結界だという設定が明かされる。
 道理で赤くなってからはいつも満月だった訳だ。第十五話から一話毎に一ヶ月経過していたのではなさそうである。
 星明は、第九話で先代蘆屋道満から教わった術で牙狼の鎧から吸収した邪気が強まり、苦しんでいた。第七話で登場した熊野の山で身を清めたり、祖父の術で浄化をしてもらったりするが、中々上手くいかない。
 しかし熊野からフラフラになりながら平安京を見下ろせる山まで歩いてきて、蘆屋道満に最終決戦を挑む。
 星明は敗北し、「嶐鑼」(ルドラ)の依代として利用される。
 ここに至って当代蘆屋道満と先代蘆屋道満の目的の相違が最高潮に達する。大まかに説明すると、先代は陰陽師として強い光に匹敵する強い闇を求めたのに対し、当代は自分ごと全世界を滅ぼす様な強い闇だけを求めていたのであった。
 そして当代蘆屋道満の方が戦いに勝ち、嶐鑼は制御不能な形で目覚める。
第十九話 繚乱
 星明を依代とした嶐鑼は、蘆屋道満と手を組み、源頼信と袴垂を半殺しにする。
 嶐鑼は雷吼にも戦いを挑むが、そこに突然赫夜が現れると、急に撤退する。
 赫夜はかつて嶐鑼を封印した者だったらしい。
 道長は有名な「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を呪文として使い、謎の書物に呪術らしきものを施していた。
 いつも満ちている偽の月である紅蓮の月の設定は、そもそもこの歌にヒントを得て作ったのかもしれない。
第二十話 依代
 蘆屋道満道長の捨てられた双子の兄弟であったと判明する。
 そして、生まれた後の環境が異なっただけで、世界観がまるで異なってしまうという事が強調される。
 第五話以来語られ続けてきた「環境こそが悪を作る」という命題がここでも再確認される。
 牙狼シリーズは仏教の影響が強い作品であるが、今回は中でも浄土真宗の影響が強いと言える。
 今までのシリーズで魔戒騎士がほとんど同情せずに斬ってきた、陰我によってホラーとなった人々は、社会悪の犠牲者でもあったのである。
 よって「陰我」という観点では絶対善になってしまう藤原道長の卑劣さが告発される時、実は彼が象徴している歴代『牙狼』シリーズの全魔戒騎士の歪んだ正義もまた問い直されているのである。
 この自己批判的な姿勢は見事であるし、それを芸術にしてしまうというのは歴史に残る一流の特撮にとっては一種の通過儀礼とでもいうべき恒例行事である。
 しかしだからこそ、第三話で道長の甥の藤原伊周を出してしまったのは失敗であったと思われる。あれで藤原道長の印象が「三男坊に生まれながらも一族との激しい競争を勝ち抜いて勝者となった男」という史実に近付いてしまい、環境のせいだけで道満と道長が両極になってしまったというこの物語の設定を揺るがしてしまっている。
 なお、皇宮が敢えて「光宮」と公式サイトの用語解説(http://garo-project.jp/ANIME2/story/keyword.php)で表記されているのも、「闇」に目を向けず同情もせず自分たちだけ光であろうとする集団を告発するための改変なのであろう。
 そしてここまで考えると、陰陽を調和を重んじる陰陽師がこの物語で重視されていた事も理解出来る。彼らの理念は、光に偏り過ぎた魔戒騎士や魔戒法師を乗り越えるかもしれない。