1.はじめに
今書かないと永久に書かないまま終わってしまいそうな話題なので、推敲もせず思いつくままひたすら書いてみる。誤記その他はいつも以上にあると思うが、お許し願いたい。
テーマは私と仏教の関係である。
私は(多分)後述する様に、仏教にヒントを得たおかげで、数年前に諸々の負の感情がほぼ消えた。
仏教そのものを実践したとは思っていないし、負の感情は「ほぼ」消えただけで多少は残っている。なので「仏道修行をしたおかげで」とは書かない。書いたら真面目に原理主義的に修行をしている僧に失礼だ。
しかしまた仏教の知識のおかげでこの状態に来たので、あたかも独力で悟ったかの如く振舞ったのでは、釈迦に対して失礼となる。
だからこういう表現となった。
2.無明時代、「怒り」が問題意識の最大点だった
未成年のころ、私には様々な負の感情があり苦しんだが、「怒り」がその中で最大のものであった。
他人と比べたわけではないし正確には比べられないので、ひょっとしたら世界の平均よりは怒らない子だったのかもしれないし、逆に嫉妬心などの別の負の感情も平均を超えていた可能性はある。
だが自分にとって最大の問題は「怒り」による苦痛であり、それが他人と比べてどうであるかは問題外だった。
これさえ半分にできるなら、他の負の感情が全部倍になってもいいぐらいだった。
そういうわけで、怒りを消す技術という噂のあった仏教に興味を抱いた。
3.最初は意味不明だった
とりあえず怒らない人を「仏様みたいだ」と表現する風潮は知っていたし、そういう高僧を何人も直接目撃したり間接的に評判を聞いたりしたので、仏教と「怒らない」の間には、何らかの強い相関関係がありそうだとは思った。
しかし仏道修行をしたから仏みたいになったのか、仏みたいな人だったから仏道修行に耐えられたのか、そこらへんの因果関係はさっぱりわからなかった。
そして人間の感覚を細かく分類してみせたりすることに、宗教として何の意味があるのかも、当時はまったくわからなかった。実はこの部分こそが後に最大のヒントとなるのだが…。
しかしとりあえず学び続けた。仮に何の効果も無かったとしても、教養としての意味はあり、東アジアの思想史や文学史を学ぶ際に多少は役立つだろうとも思ったからだ。
4.犬と台風と自由意志
仏教とは別個に、「怒り」についても考え続けた。
ある日、私を含めた多くの人が、自分に被害を与えてきた他人に対して怒ることはあっても、それ以上の被害を与えてきた台風に対しては同じように怒ったりはしないということに気づいた。
そして犬などに対しては、人間と台風の中間的評価になりやすい。
怒りが収まらない人に対して、「犬にかまれたと思って忘れろ」という決まり文句による助言があることも知った。
なぜそういう不平等が起こるのかといえば、おそらく「自由意志」を想定するからなのであろう。
台風が人を殺したら自然現象なのに、人が人を殺すと不自然だという錯覚が、人を怒らせるのだろう。
だが人もまた物質であり、脳内の物質の何らかの作用の結果として全身が動き、他者を殺すのであるから、結局は殺人行為とて自然界の物質が織りなす自然現象なのである。
それを完璧には理解できていないから、人は台風を免罪して他人を断罪するという不平等を犯すのだろう。そして実のところ半ば理解しているからこそ、犬を無理に人か台風のどちらか一方に分類せず、中間的な対応をするという誤魔化しをするのだろう。
そう気づいた。
5.神経科学との出会いで完結
そして神経科学に出会った。
様々な実験から、人の「意識」なんていうものはある意味では幻想であり、様々な感覚の相互作用により瞬間ごとに現れるものにすぎない、ということが判明していると知った。
このとき理解した。
仏教がなぜ人の感覚をあんなにも細かく分類していたのかを。
「アートマンなどというものは無い」という主張とそれがどう関係しているのかを。
そしてそれを学ぶとなぜ怒らない人になれるのかを。
他者とは台風のような自然現象であり、台風を捨て置いて他者に怒りを持つことが、如何に馬鹿馬鹿しいのかを。
自分が「自己」と思っているものも、瞬間だけの幻想であり、さして大切なものではないということを。
悟った人に利他的な人が多い傾向の理由も。
「コギト エルゴ スム」に、未来形バージョンや過去形バージョンが無い理由も。
6.梵天は来なかった
この体験を大々的に発表しようかと思ったが、調べてみると似たようなことを言っている人が、大勢いた。
しかも仏教界にも科学界にもだ。
しかも増え続けている。
最近の例として一つだけリンクを貼っておく。
だから、仏教も科学も素人の分際で、苦労して新興宗教を作って大々的に教えを広めようという気にはならなかった。
7.ではなぜこんな文を書いたのか
世の中には、仏教と神経科学が融合しつつあるというこの大規模な思想上の変動を知らないのに、この記事には偶然出会ったという奇特な人物が、百人ぐらいはいるかもしれない。
その中には、負の感情で苦しんでいる人が十人ぐらいいるかもしれない。
その中には、この記事をきっかけにそうした感情から抜け出せる人が一人ぐらいいるかもしれない。
まずはその約一人のために書いた。
そしてもう一つ、実はこちらのほうが重要なのだが、私の様に中途半端に悟った人物ならではの注意点というものがある。なので同類様や未来の同類様への警鐘のための、壮大な前書きという意味もある。
その注意点については本記事の「その2」で書く予定である。それを書くのがいつになるかは不明であるし、結局は書かないかもしれない。