私と仏教の関係その2 科学的仏教理解の負の側面

  私は自分が神経科学と仏教の総合理解によって「三毒」をほぼ消し去った。残念ながら後述するようにある程度の三毒は残ったので、完全な悟りではないが、それでも過去の100倍は精神的に楽になった。

 このため、布教こそしなかったものの、他人から悩みを相談されたらいつも仏教の話ばかりしていた時期があった。

 だが後から弊害も多いと判明したので、最近ではかなり「取り扱い注意」をすることにしている。むしろ日常的な人付き合いにおいては「秘伝」にしてしまってすらいる。

 ここからは、私や、私の周囲で私を真似た者や、おそらく私と同じような形で心の平穏を得た者たちに起きた、または相当の確率で起きたと思われる、多くの弊害を書いていく。

 私の記事を参考にして短期的な修行で一気に負の感情を滅したいと思っている人は、以下の問題点もよく理解しておいてほしい。そして以下の弊害が避けにくいと感じたら、遠回りでも伝統仏教で地道に修行をすべきである。

1.他人の俗っぽい感情が理解できなくなる。

 人はしばしば己を物差しにして他人を計ってしまう。しかも「仏教を学んだ自分という善人は、悪人の進化系であり、昔の経験から悪人どものこともよーくわかっている!」と慢心しやすい。

 以下は私の経験である。

 皆から慕われるKさんを一人だけ妙に嫌っているLさんという人がいた(どちらもイニシャルではない)。

 私は、「LさんだけはKさんから酷い仕打ちを受けたのか、それともLさんの頭が完全におかしいか」という二つの仮説しか思い浮かばないまま、一年前の三月に彼らとの縁が切れた。

 その後、「MさんはNさんと目標が同じなのに能力が劣っているのでNさんに嫉妬している」という世間話を聞いているうちに、「ああ、そういえば人間どもには嫉妬心という感情があったんだったな」と思い出し、「Lさんもそうだったのかな?」という第三の仮説を思いついた。

 刹那の後、自分の発想と人間観察能力が如何に貧しくなっていたかに気づき、愕然としたものである。

 この傾向がもたらす弊害は多岐にわたりすぎ、また容易に想像がつくものであり、後述の内容とも被るので、これ以上はクドクドと語らない。

2.欲望のバランスが崩れ、食欲が突出する。

 「無我」を理知的に知ると、名誉欲や自己実現の欲はほぼ完全に消えるのだが、本能的な食欲は逆にほとんど消えない。

 「それでも逆に欲が増えたりはしないのだから「弊害」ではないのではないか?」と思われるかもしれないが、欲望のバランスが崩れるとやはり様々な弊害がもたらされる。

 食べ物を買う金にも困る人は、名誉欲が消えると、「武士は食わねど高楊枝」ができなくなり、より苦しむ。

 食べ物を買う金には困らない人は、名誉欲が消えると、ダイエットの動機が減り、どんどん太り健康を害し、成人病がもたらす様々な痛みを味わうことになる。そして「痛いのは厭だ」というのも本能なので、やはりgureneko仏教初期版ではほぼ消せないのである。

 理知を元に様々な欲を消したが食欲だけには苦しんだという事例としては、ギリシアにもディオゲネスという先例があるが、gureneko仏教初期版をやるとまさにああなるのである。

 そういう意味で、理論学習の前にまずは理屈抜きで食欲を抑える訓練をさせた、伝統仏教の「律」という制度は実に素晴らしい。

3.方便を馬鹿にするようになる。

 たとえノイズ塗れであってっも東アジア全体に仏教が広まるよう、多くの先達が、欲深い人でもつい仏教を広めたくなるよう、権力者が仏教を弾圧したくなくなるように、異文化にも理解されるように、多くの方便を作ってきた。

 そのおかげで仏教的発想が日本人の血肉となり、故に「ストン」と最新の脳神経科学の成果を過去の様々な具体例まで合わせて理解できるわけだ。

 それなのにいったん科学に目覚めた途端、仏教の方便的な部分を全部馬鹿にする者が多い。

 あたかも、暗号だからこそ関所を通過できた密書の解読に一時間かかった者が「暗号でなければ一時間早く解読できたのに」と不満を鳴らすようなものである。

4.アドバイスのバリエーションが減る。

 人が苦しみから救われる手段は様々ある。

 「「我」は確固として存在し、死後は神に救われる」と信じることで平均的な仏教徒以上の心の平穏を得ている人もいれば、『芋粥』の五位のように欲望を一度満たすことでその欲望のつまらなさを理解できる人もいる。

 それなのに、困っている人に対していつも同じアドバイス「自己が幻想だと気づけ」ばかり語るようになってしまうと、周囲から見て「困った」人になる。

羅生門・鼻・芋粥・偸盗 (岩波文庫)

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