今の私の境地は錯乱坊そのものだと気付いた。 高橋留美子は天才である。

 以前の記事でも書いた事だが、私は理論を中心に仏教を学んでいたら、あるとき食欲以外の欲や負の感情が99%ぐらい減った。

 「仏教ではアートマンなんてものを否定し、「自己」と思い込まれているものとは、多数の要素の織り成す一瞬ごとの関係性の総体であるとみなす」という知識と、「仏教をやれば貪瞋痴が消えるとされる」という知識とは、自分の中でずっと別個に存在していたが、神経科学などを媒介にあるとき一つになったのである。

 すでに過去記事でくどくど解説したので詳細は省くが、軽く思考例を紹介しておく。

 「台風8号が憎いから引き合いに台風9号を褒めてでも8号の評判を下げる噂を流してやる!」という決意が明らかに馬鹿馬鹿しいように、「山田八郎が憎いから引き合いに山田九郎を褒めてでも八郎の評判を下げる噂を流してやる!」という決意も馬鹿馬鹿しいのである。台風8号も山田八郎も、ある空間におけるエネルギーの形態と動きに過ぎないのだから。

 こう気づけばあとは簡単だ。怒りの感情だけではなく、次は名誉欲などまで次々消えるのもわかるだろう。「私は山田七郎より知名度があるから嬉しい、ヒヒヒ。しかし山田六郎の知名度には及ばないから悔しい、グヌヌ」だなんて、人名部分をそれと根本的に同質のものである台風7号と6号に置き換えてしまえば、恥ずかしすぎてやってられなくなる。

 しかし本能に深く根ざし、初めから物質がお相手の食欲は、この理屈では消えない。それどころか遭難先で山田五郎を躊躇なく食べてしまい、第二次ひかりごけ事件を起こしてしまいかねない。

 「だから仏教は理屈を教えるだけでなく修行もさせるんだな」とわかり、理屈だけで貪瞋痴の大半を消した自分をディオゲネスになぞらえた。

 ここで忸怩たる思いだったのが、元々消したいとも思っていなかった食欲が消えなかった事なんかではなく、ディオゲネスよりももっと身近でわかりやすい例が見当たらなかったという事である。

 そして数年間ウンウン唸っていたら、先程突然『うる星やつら』の錯乱坊のことを思い出した。

 彼こそ、食欲以外は煩悩がほぼ消えた人物の、真の典型例であろう。しかも日本人になじみ深く、かつ仏教ともしっかり関係している。

 こういう人物が過去に創作されて一定の知名度を持ったという実例を、私は他に知らない。

 やはり高橋留美子は天才である。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)