「プロレタリア文学の古典」

 かつてのプロレタリア文学が現政権の正当化に役立っているのは、何も社会主義圏だけの話ではない。
 例えば、現在「ワーキングプア」と呼ばれる人達に『蟹工船』を読ませてみたとして、一体どれだけの割合の人が「これは俺達の事だ!」と思うだろうか?大半は、「俺たちはまだマシだ。」と思ってしまうのではなかろうか?
 そもそもこれは、プロレタリア文学の持つ宿命なのだ。各時代・各国ごとに固有の労働問題が存在するのだから。
 私は、「プロレタリア文学の古典」が無意味だの害悪だのと言っているのではない。
 「古典」としての価値、即ち資本家だの労働者だのといった狭い枠組みを超えた全人類的遺産としての価値は、一日経過すれば一日分だけ高まっていくだろうと思っている程だ。
 ただし同時に、「プロレタリア文学」としての価値は、日に日に低下していくとも言っているのである。

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)