靖国神社と、「中韓両国」

 靖国神社関連の話題で「中韓両国からの批判」という表現が登場すると、文脈にもよりけりだが違和感を覚える事の方が多い。
 まず外交レベルの話であれば、その批判内容が同じなのか違っているのか、違っているとしたらどう違っているのかを、知りたいと思ってしまう。
 民間交流レベルであれば尚更である。中国と比較して韓国は言論の自由がかなり保障されているので、靖国への批判の程度・内容・理由・代替案等について、国内でも人や組織によって様々な立場があるはずだ。それを「韓国からの批判」と一緒くたにするだけでも随分乱暴なのに、更に中国からの批判とまで一纏めにしてしまうというのは、多くの場合乱暴極まりない発想である。
 「中韓両国からの批判を受け入れるか否か」の二者択一ではなく、多様な批判のどこまでを受け入れるかを議論すべきである。多様な批判を一つずつ吟味していけば、靖国の伝統を守りたがっている人でも、妥協可能なものが見つかるかもしれない。逆に自他共に「アンチ靖国」である事を疑いすらしなかった人でも、流石に受け入れられない要求も発見できるかもしれない。
 批判内容のみならず、批判に耳を傾けてみるか否かに関しても、二択であるべきではないかもしれない。「日本の戦争の直接の被害者であった中国人の批判の方だけ聞いてみる。」という人や、逆に「かつて同じ日本人としてともに戦った韓国人からの批判だけは考慮すべきだ。」という人が、もっといても良いのではなかろうか?

 そもそも、中国と韓国とは別の国である。しかもその国際秩序は、日本人自身が1895年に武力で押し付けたものである。両国の区別をしっかりとつける道義的義務は、他国民に比べてかなり重いのではないかと、私は思っている。