橋爪大三郎著『政治の教室』(PHP研究所・2001)

政治の教室 (PHP新書)

政治の教室 (PHP新書)

評価 知識1 論理1 品性2 文章力1 独創性2 個人的共感1
 まず文体についてだが、同じ段落の中においてすら、「です・ます調」と「だ・である調」が混在している場合が多い。
 「あとがき」によると、「共著者と言ってもいいくらい」なPHP研究所の編集者が、「細かな表現の問題点についても丁寧にチェックしてくれた」らしい。著者がそう感じる程度のチェックがあったのにこの有様では、草稿の段階での文章はどれだけ悲惨な状態だったのか想像もつかない。

 続いて内容を検証する。
 71ページ、儒教の説明で、「すべての人間が対等であることを絶対に認めない。」だの「人間を超越する、エイリアンのような絶対神が存在する事も絶対に認めない。」だのと書いてある。よくもこれだけ無造作に「絶対」という言葉を使用できるものだと、逆に感心してしまう。前者の反証には康有為や譚嗣同のグループの儒学が挙げられるし、後者については「天」を人格神として扱う儒者は特に初期においては多数いると指摘しておきたい。
 ちなみにこの後も、果たして無視してよいのか首を傾げる程に巨大な例外を切り捨てた概論が語られるが、「絶対」とまで言い切っていない場合はなるべく許容して指摘を控えた。
 74ページでも、同じく儒教の説明で、「でも、父親が聞き入れなかったら、嫌な顔をしないで言う通りにすること。そんなことまで決まっています。」とある。実際には、『礼記』曲礼篇等にある様に、三度諌言して父親に聞き入れられなかった場合、嫌な顔どころか号泣する事が許されている。
 76ページ、科挙の思想で儒教を書き直したのが朱子学という事になっている。科挙の制度が宋学以後によく見られる「聖人学んで至るべし」の発想を強めたという影響は否定しないが、朱子学は本来科挙のための勉強を邪道扱いしていたはずである。
 83ページ、「法の支配」の解説が、「法治主義」と足して2で割った様な内容になっている。ちなみにこの傾向は、著者が同じくPHP新書から二年後に出した『人間にとって法とは何か』にも受け継がれている。
 108ページ、江戸時代の農民は、「身分の変更も不可能」で「生まれたムラで農民として生きていく以外に選択の余地がな」かった事になっている。では「人返し令」は誰を対象にしたものだったのか、教えて欲しいものだ。
 109ページ、「武士は給料も役職も父親から世襲するだけで、自分の運命を自分で切り開くチャンスはない。」との事である。幕府の役職が実は世襲で「足高の制」が後世創られた虚構だったとは、流石の私も知らなかった。
 113ページ、「革命的な勇気と知識、命を投げ出しても社会を変えようという行動力を持った人びとが何万人、何十万人も現れて、明治維新を実現した。」とのことである。そんな逸材が何十万人もいたとは知らなかった。
 118ページ、「前述したとおり、ヨーロッパの国家は政教分離が原則である。フランス共和国にはカトリック教会があり、ロシア帝国にはロシア正教会があり、プロイセンにはルター派の教会があり、アメリカ合衆国にはさまざまな教会がある。でも、どの国でも、世俗の国家権力と宗教的権威(教会)が切り離されている。」とある。フランスやロシアやアメリカに「共和国・帝国・合衆国」を付けてプロイセンに「王国」を付けないのは奇妙だが、そうした揚げ足取りはさて置く。ここでは62ページの「前述」を紹介したい。「東ローマ帝国は、長続きしたので、東方のビザンチン教会(ギリシャ正教会)の基盤は磐石で、皇帝が総主教を兼ねる政教一体型の政治体制が伝統になりました。これは皇帝教皇主義と呼ばれており、ギリシャ正教の「分家」であるロシア正教も同じスタイルを取っています。」
 121ページ、維新から憲法発布までの政体を論じて、「実際の政治も、天皇が任命する太政官や参議といった人びとが行なっていました。」としている。ちなみに当時の参議は太政官という組織内の一役職である。
 177ページ、「中国共産党朝鮮労働党、戦前の大政翼賛会のように、政党が政府のコントロール下に置かれるかもしれない。」とある。少なくとも前二者については、政党の方が政府への優越を保っているのではあるまいか?また大政翼賛会に「戦前の」と付けた理由も不明である。大政翼賛会は、戦争が始まった後はその統制を抜け出したが、発足から開戦までは政府の管理下にあった、という意味だろうか?
 192ページ、「これまでは東大法学部がその代役みたいなものだったが、法律だけ勉強しても優秀な政治家の資質が身につくとは思えない。もっと実践的な政治や経済を学び、それに加えて哲学、歴史、語学、数学、自然科学などをオールラウンドに身につけられる場所をこしらえるべきです。」とある。東大法学部には政治コースがあるし、法学のコースを選択した者も政治学関連の授業を受けられる。また、学士入学者等の一部の例外を除けば、東大法学部生は全て教養学部前期課程という「哲学、歴史、語学、数学、自然科学などをオールラウンドに身につけられる場所」で二年以上の時を過ごしている。
 ところで著者は87ページで小室直樹を「恩師」としているが、恩師の恩師である丸山真男が東大法学部で日本政治思想史の教授だった事も知らないのか?東大在学中に、法学部の授業内容について気軽に聞ける友人が一人も出来なかったのか?それとも全て知った上で、本の売れ行きを伸ばすために東大法学部を誹謗したのだろうか?

 後半に書かれている諸々の提言の多くは、私自身は共感する所が少なかったとはいえ、賛否両論が予測される程度の質は保たれていた。それだけに、上述に指摘した箇所に代表される杜撰さが残念である。