自害の余殃

 三年前の今頃、恋人が自殺をした。正確には、恋人であったかもしれない知人(以下、「甲」と表記)が自殺を予告してきた。甲は自殺をする直前、私に電話をしてきたのである。
 その電話の内容を簡潔に纏めると、甲は私を実は憎んでおり、憎んでいたのに付き合っていたのは利用するためであり、かといって最期の時に電話をしたのは懺悔のためではなく嫌がらせのためであり、表面上は愛していても実は憎んでいた原因は私が大して甲を愛していないからとの事であった。
 到底まともな主張と認める訳には行かなかったが、第1の仮説として、本人の中では本人なりに筋が通っていたのかもしれないと考えた。この説は、筋が通っていた理由をめぐり、甲が極度に自分勝手だったからという「1−1説」と、自殺用に服用した薬物による混乱のせいという「1−2説」とに細分出来る。
 第2の仮説として、私がさっさと甲を忘れられる様、敢えて悪人を演じてくれたのではないかとも考えた。
 第3の仮説として、逆に永遠に私の脳内に留まるため、敢えて印象的な言動を心掛けたのではないかとも考えた。
 私はどの説が正しいのかを延々と考えた。当初は確実な答えを目標に無駄な思考を続けた。やがてどうせそんなものは判らないのだから早く別の事を考えた方が得だとも考えた。しかし中々甲の事は頭から離れなかった。結局弁証法止揚として、より正しい可能性が高いのはどの説なのかという問いに暫定的な答えを出して落ち着こうという発想が私の脳内で主流を占めた。
 そこで手元に残っていた書簡を消印の年代順に並べ、自殺をしたと思われる日までの日数に反比例させて資料的価値の序列を定めた。そして文章の丹念な解釈を行った。結論は、1−1説・1−2説・2説・3説のどれもが約25%の確率で正しいというものであった。
 その頃から私は、人をつい殺してしまってから後悔するという夢を、ほぼ毎晩見る様になった。ただし「後悔」と言っても、殺した事自体については何らの罪悪感もなく、ただただ殺人罪で裁かれて怖ろしい犯罪者と厳しい看守とが巣食う刑務所に放り込まれる事を恐怖するという内容であった。
 毎朝、「夢なら醒めてくれ!」と思った瞬間にしっかり醒めた。あまりに都合が良いので、起きてから30秒は夢から醒めたという現実が信じられず、自分は現実を無理に夢だと思い込もうとしている内に半ば狂ってしまったのではないかと懐疑したものである。
 その種の夢見の日々が終わる切っ掛けとなったのは、ある日目の前で起きた交通事故であると思われる。私は幼児が車に撥ねられて死んだのを間近で見てしまった。特に何の感慨も無かったが、何の感慨も無いという事への驚愕は有った。そしてひょっとしたらあの日死んでしまったのは自分の方なのではないかとも思った。ともかくその日を境に悪夢から解放された。
 それからまたしばらくして、ある大雨の夜、甲が拙宅を突然訪ねてきた。一晩でいいから泊めて欲しいと依頼してきたので泊めた。
 実は生きていたのか?仮に実は生きていたとして、自殺は狂言だったのか、未遂だったのか?
 それとも地獄から蘇ってきたのか?仮に地獄から蘇ってきたとして、何日前に蘇ったのか、そして何日か後までに確実に地獄へ戻らなければならない等の掟はあるのか?
 はたまたこれは幻影だろうか?仮に幻影であるとして、私以外の誰かにも見えるのだろうか?
 そうした疑問が次々に湧いてきたが、根掘り葉掘り質問を浴びせるのも無粋だと思ったし、質問しても相手が返事をしてくる保証も無いし、返事がなされたとしてもそれが正直なものである可能性も相当低そうなので、黙っていた。
 最近、甲と社会的には同一人物であると認識されるであろう人物が存命であるという未確認情報がもたらされた。
 しかし甲が自殺したという事実に変わりは無い。
 自殺の動機、及び末期の言葉の真意は、未だ杳として知れない。