夜汽車

 車両の端の方で麦酒缶を片手にして意味不明な言辞を連ねていた老酔客が、不愉快な事に私の座席の方に近付いてきた。彼が吼える場所を変えたのには彼なりに理由があるのだろうが、その理由が何であれ不愉快である事に変わりは無い。
 先程まで不愉快で無意味な音声の羅列であった彼の発言は、距離の縮まりによって無意味な単語の羅列として理解が可能な程度の内容に私の中で進化してしまった。これが更に不快感を増した。
 私は彼が何時絡んできても確実に反撃出来る様、心身共に臨戦態勢に入った。
 私の不愉快さを察した隣の男が語り始めた。
「君が彼を怖れる理由を僕は知っている。「自分達」という集合と彼との間で明白な境界線を引けないからだ。単なる音であったものが、やがて単語の形を成し、更には文として迫ってくる・・・。これに伴い、境界線はどんどん曖昧になっていく。そして自分が確固として信じていた自己の意識もまた単なる信号に解体されてしまうという恐怖・・・。」
ベイスターズは五十年間負け続けてきたけど、それは油断させるためだよ。人間の偉大さを感じたね。その時になってみれば心臓が停まっても俺は知らないよ。人間の偉大さを感じたね。座っていい?駄目。その時こそ顔が黒いのも白いのも褒めてやるよ。俺はもういつ死んでもいいよ。人間の偉大さを感じたね。」
「かつて人は、「死後、自分の魂が消滅するかもしれない。」事に恐怖していると自分に思い込ませる事で精神の平衡を保っていた。しかし科学の発達がその欺瞞を許さなくなってきた。今、君は正確に「一刹那の後、自分の魂が消滅するかもしれない。」事を恐怖している。」
 その時、突然若い男が老酔客に立ち向かった。
「訳の判らない事を言うな!」
と叫んだかと思うと、平手打ちを食らわせて老人を転倒させた。そして、
「貴様の様な奴がだらしなかったから帝国は負けたんだ!そのせいで我々戦後世代がどれだけ苦しんだか貴様には判らないに違いない。そういう他人の気持ちが判らない奴は粛清されねばならん!」
と大声で言いながら、老人を激しく蹴り続けた。
 その若者の声は、激しく、大きかったが、何故か全く感情というものが感じられなかった。顔を見ると、汗一つかかずに、無表情で怒鳴り続けていた。
「やだねぇ、最近の若い人の右傾化は。もしも東條閣下が御存命で社会を厳しく統制し続けてくれていれば、若者がそれ以上右傾化する事も無かったろうに・・・。」
向かいの席の老婆が嘆息した。
 私は、倒れた老人の死体から流れ続ける血と転がり続ける麦酒缶から流れ出す麦酒とが白い床の各所で混じり合っていく様子を、ぼんやりと観察していた。それは様々な偶然が織り成す、自然の醜い前衛芸術であった。同じ前衛芸術でも、先程の老酔客のベイスターズ評と違って必然性が入り込んでいる可能性が低いので、安心して高みから見物出来た。
 麦酒が混じった血液の拡がりが最初に触れた靴には、その瞬間において履き手というものが存在しなかった。靴の持ち主である少女は、靴を脱いで窓の方を向いて膝立ちをして夜景を眺めていたのである。
 少女は独り言を言い始めた。
「せめて夜が明けてくれれば、少しは退屈せずに済むのに・・・。」
 その頃には私も、この列車が、過去無限の時間において一度も停車した事が無く、今後も決して停車しない事を、思い出していた。
(それでも紀行文というものは必ず完成してしまう不思議なものなのである。)