しゃれこうべ

往復書簡の相手に捧ぐ
 ある日背後から斬り殺されて落命し、その後腐敗が進み、気が付くとしゃれこうべになっていた。不思議な事に脳を失ってもこうして考える事が出来るし、眼球を失っても視覚は失わなかった。
 なおこの自分の姿については朝露の反射等の断片的な情報から構成しただけである。ひょっとすると首から下の骨も近くに埋まっていたりするのかもしれない。
 今一番気になっているのは、これと同じ現象が他の死人にも起こり得ているのかという事だ。全ての頭蓋骨に生前の意思が宿るのか、それともこれは私にだけ起きた事なのか、あるいはまた私を含めた一部の頭蓋骨だけに起きる現象であるのか?また一部の頭蓋骨だけに起きるとするなら、その理由は何か?
 何故こんな事が気になるのかというと、目の前にもまた一個のしゃれこうべが転がっているからである。そいつは私がしゃれこうべになってしばらくしたある日から突然存在し始めた。私が寝ている間に誰かが置いたのだろうが、実に気になる存在である。私の様に意思があるのに喋れないでいるのか、それとも元々意思がないのか?こいつを見ているとついいつもそんな事を考えてしまうのである。
 省みれば、生前の私は他の人間を目の前にしてもそんな事を考えた例はほとんど無かった。誰もが意思を持っているというドグマを疑う事にこれといった利益を見出せなかったからだ。せいぜい月に一度ぐらい思考実験としての独我論を検討し、やはり他人に意思が有ろうが無かろうが外見的には同じである以上は少なくとも私にはやはりどちらでも良い事だという事を再確認するだけであった。
 だがこうしてここで延々と考えていると、前述のドグマも独我論も、偶然正解である確率は0.5のn乗(nは私以外の全人類の頭数)しかない極端な二大暴論にも思えてくる。
 今二番目に気になっているのは、私が誰に何故殺されたかという事である。記憶の消失は生前とほぼ同じ速度で進行している様なので、もし将来急に「祟る」という技能が身に付いた時のためにも、これは予め考えておくべき事である。
 誰かに酷く恨まれたり誰かと酷く利害が対立したりしていた記憶は無いので、人違いか快楽殺人の線が濃厚なのだが、生前に愛読していた推理小説では探偵が既存の僅かな情報だけで意外な真犯人を発見していたので、私もそう簡単には諦められないのである。
 幼い頃に戦争で家族を失い、その後の人生を延々とその戦争の発生・継続の原因について調べ続けていた学者を、私は知っている。半生を費やして歴史学と経済学とを修めたらしいが、責任主体とは何かをも解き明かすため、80歳になって知力が錆びつき始めても哲学・法学・心理学等の古典から最前線までを広く研究し続けていた。そして、同じ動機を持っていたかつての同志達が次々と「A国」だの「B主義」だの「C団」だの「D氏」だのといった解り易い悪役を発見してそれこそが悪だと自分に信じさせる努力を一年ぐらい行ってその後は嬉々として脱落していったのを、彼は冷笑していた。私は彼こそを最も強く軽蔑していたが、今では最強の暇潰しの達人と見做して高く評価している。
 三番目に気になっているのは、私は何によって思考を行っているかという事である。勿論思考が物理世界に依拠しているという絶対的な証拠は無いし、しゃれこうべになっても思考しているので世界と思考との繋がりへの信仰は揺らいだが、「私」の視覚がしゃれこうべの眼窩から動けないままでいるのも事実であるので、ある意味では一層信仰が強固になったとも言える。
 「私は脳である。」で全てを解決した気になっていた連中には、昔は「本当にそう思っているのなら、何故『私は私である。』とか『脳は脳である。』とか言わないんだい?」という皮肉をぶつけたくなったものだ。今では打ん殴ってやりたい。
 この頭蓋骨が朽ち果てれば、私は別の状態に移行するのだろうか?
 それにしても何故生前の私は「この肉体が朽ちれば私はどうなるのか?」という思考実験を中学生の時に止めてしまったのだろうか?
 こんな事を考え続けるのは妄執だろう。これさえ止めれば記憶の減退の促進によってやがて思考も不可能となり、緩慢に「死」を得られるかもしれない。実際何度か試したのだが、嗚呼、私はどうしても思考を停止出来ないのだ。肉体が有った頃は何も考えずに済んでいたのに!
 いや、今でも考えずに済む工夫があるかもしれない。それを探し続けよう。
 座禅の修行は厳しい。