数年後に気付いた彼女の事情

 私は不愉快な記憶を忘れようとする努力が出来ない人間である。流石に臥薪嘗胆してまで無理に覚える努力もまたしてはいないが、どちらかというと損な性格であると思っている。
 だが反芻している内に相手にも三分の理が有った可能性に気付く事もあるので、この性格も独善を廃して多面的な思考を鍛えるための役には立っているのかもしれない(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20080920/1221836834)。
 今日もその種の話である。
 「数年前にある区立図書館で起きた事件」程度に思って頂きたい。
 その日私は、図書館のある階のトイレを利用しようとした。折悪しく入り口には掃除中である事を示す看板が立てられていたが、不幸中の幸いにもその看板の文言が「他のトイレを御利用下さい。」という意味のものではなく「一声お掛けになってから御利用下さい。」という意味のものだったので、私は普通に中に入っていった。
 すると中に居た掃除婦がパニック状態になり、私を不法侵入者であるかの様に扱って追い出そうとしてきたのである。
 当初は彼女が掃除中の入室を禁止している別の施設なり日程なりにおける掃除と勘違いしたのだろうと思い、「貴女自身が置いたこの看板の文言をしっかり御覧下さい。」と丁寧に諭したのだが、残念な事に埒は明かず、御世辞にも清潔とは言い難い手で追い出されてしまった。
 彼女の発言は、意味こそほぼ不明だったものの、発音や速度は寧ろネイティブの気風を感じさせるレベルのものであり、辛めに採点してもニアネイティブの域には充分達していると言えた。
 これがもし所謂外国人労働者問題の具体的顕れの一局面であったならば、その場での解決を諦める気になったかもしれない。だが前述した日本語の能力を勘案するに、どう考えても彼女が単に使用者を無体に排除する事で掃除をさっさと終わらせたがっている身勝手な人物としか思えなかったので、私は闘う事を決意した。
 「貴君が違法に雇った悪魔と共に厠を掃除して小金を稼ぐのなら、私は大義を従えて無償で日本を掃除する!」と腹の中で怒鳴り、図書館の職員に彼女の所属している清掃業者の名称と連絡先とを尋ねた。
 すると予想外な事に、職員は辞を低くして代わりに謝罪した上に、どうかそれだけは思い止まって欲しいと依頼してきた。「お前が謝れ!」と言われて「あれは民営ですので。」と逃げるのなら判るし、「規則により教えられません」という回答も想定の範囲内だったが、これはまた一体どうした事だろうか?それでも交渉を続けていた所、なんと館長まで登場してきて、同じ様な態度を見せたのである。
 罪の無い年長者に頭を下げさせている時程居心地の悪いものはない。私は仕方なく引き下がる事を決めたのだが、それでも何故そこまでして彼女を庇うのかを聞いてみた。
 すると、「これがばれたら、彼女はクビです。何とか今回だけは許してやって下さい。」と言われた。私はここでまた怒りが再燃してしまった。証拠を伴わない抗議だけで馘首されるとは思えないし、仮に彼女一人が失業してもその分だけ一人の失業者が就職出来るだろうにと思ったのである。また、彼女に掃除婦としての能力があれば馘首されても同業他社に簡単に再就職出来るだろうにとも思った。
 そして「このオッサンは社会に目を向けずに公務員をやり続けていたせいで、自分が今庇っている対象にとって失業がどの程度の意味を持ったものなのかすら知らず、我が身にのみ置き換えて思考しているんだな。こんな世間知らずがゴロゴロしているから、行政は中々失業問題もワーキングプア問題も解決出来ないのサ。」と、自分の方が遥かに巷を知っているという優越感を持ったまま、今日までこの事件を思い出す度に公憤と私憤で身悶えしてきたのである。
 だが昨日自分が書いた文字に関する日記(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100521/1274446681)を読み返している内に、あの日に味わった奇妙な体験を完全に説明出来てしまう、ある仮定を思い付いた。
 彼女は実は文字が読めなかったのではなかろうか?
 彼女が文字が読めない事を隠して何とか潜り込んだ会社も、文字が原因で起こした事件に関する抗議が来れば、彼女に簡単な試験を課すかもしれない。そうなれば全ては終わりである。官から罷免されても私企業になら再就職出来るかもしれない区立図書館長よりも、実は彼女の立場の方が遥かに不安定なものだったとすれば、あの必死の庇い様も納得がいく。
 我々は一般に「日本の識字率は世界一ィィィイイイ!」という文脈の下で99.8%という数値に出会う。他国が低過ぎるせいで、何となく誇らしい気分になって、0.2%に思いを馳せる事は少ない。
 現在の日本の15歳以上の人口を1.1億人強として、非識字率を0.15%と少なめに見積もっても、16.5万人以上の日本人が文字を読めずに日々苦しんでいる計算になる。こう実際に計算してみると、かなり愕然とさせられる。
 「一人の文盲の苦悩は悲劇だが、二十万人の文盲の苦悩は統計上の数値に過ぎない。」とは流石に言えない日本中の善男善女も、「へえ、日本の識字率は99.8%で、世界一なのか。」なら平気で言えるのである。私も昨日までその一員であった。
※以下、西暦2022年10月29日追記
 この件では反省をし過ぎた結果、「図書館と雇用」を問題視する視点まで失ってしまったと、今では第二の反省をしている。
 地位だけ高くて現場をあまり知らない「館長」の問題については、こちらの記事(https://www.bengo4.com/c_5/n_15163/)が大変勉強になった。