日本の涸沢の蛇は数え切れないのが特徴である。

 数年前、「師匠」と普段から呼び掛ける人と共にセミナーに出席する事になった私は、場違いな程の正装をした。師匠は私に聞いた。
「なんで正装なんですか?」
「師匠を辱めないためです。」
「私は平服ですがねぇ。」
「その対比が面白いんですよ。」
「結局辱めているんじゃないですか!」
 師匠がこの文を読む事を前提に数年前のこの一件を弁解させて頂くと、これは『韓非子』説林上篇の「涸沢の蛇」という故事に由来していたのである。
 立派な服装の田成子とそうでない鴟夷子皮とがコンビを組む場合、田成子の方が偉ぶっていると、単なる雇用関係にしか見えない。だが田成子の方が謙っていると、鴟夷子皮が途轍もなく偉く見え、しかも田成子の印象はその服装故にほとんど変わらないので、コンビ全体の価値が急上昇するのである。
 以前私は、『孟子』から汲み取れる封建制を支える演技の重要性を指摘したが(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091113/1258086188)、『韓非子』はより率直にその手法を開陳している。
 坂口安吾の、『堕落論』における「天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。」や、『続堕落論』における「自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。」の部分は、この涸沢の蛇の故事にかなり通じる所がある。
 しかしこの程度の手法であれば、世界中至る所に類例を見出せよう。私は率直に言って坂口の考察には物足りなさを感じてしまう。
 日本の涸沢の蛇の凄まじさは、上下関係の演技が天皇の所までで終わらない事にこそあると私は思うのである。
 天皇天照大御神の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天照大御神の尊厳を権力者に強要し、その尊厳を利用して号令していたのである。
 そしてその天照大御神も至高神ではない可能性が示唆される。『古事記』では、天の石屋戸の話の少し前に、天照は部下を現場で指揮して神に献上する衣を織らせている。自分や自分未満の神格の神のための衣だったとは考えにくい。
 しかもその衣を着る予定だった謎の神も、最高存在とは限らない。ここから先は謎である。
 日本の権力者は、巨大な建築物を築いて散々自己の権勢を見せ付けた後でこう言えるのだ。
「どうだね。これを見ただけでもちょっとやそっとの努力では勝てないと思い知っただろう。しかも実は私の背後にはこの私よりも更に強い天皇という御方がいて私を支援してくれている。その御方には、御自身を上回る天照大御神という御方からの支援があるらしい。なおこれは極秘情報なのだが、実はその天照大御神も御衣の御具えと引き換えにより強大な何かからの助力を得ているらしい。そういう次第で、私に抵抗しても絶対無駄だから止めておけ。」

韓非子 (第2冊) (岩波文庫)

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孟子〈上〉 (岩波文庫)

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堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

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古事記 (岩波文庫)

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