隋唐と女性天皇

 唐の高宗は、「皇帝」という名称を「天皇」へと変更し、「皇后」を「天后」とした。
 これは改名好きで有名な妻(後の武則天)の影響であるとする人も多い。
 現在の日本では天皇の妻を皇后と呼んでいるが、同権運動の一環として、「女性天皇女系天皇を認めよ!」という既存の主張の他にも、「皇后を天后に昇格させよ!」という主張があっても良いと思う。
 一方日本では、称徳天皇の時代に盛んに皇帝号が使われたらしい。改名の方向こそ逆だが、それを通じて新しい何かに生まれ変わろうとする意志は共通して感じ取れる。
 『神皇正統記』が指摘する通り、称徳天皇は、一度出家してから前任者を強引に廃位して即位し、仏教を尊重したという点で、武則天とかなり共通している。他にも四文字の元号が共通点として挙げられよう。
 これは単なる偶然ではなく、「そういう人物が国の代表でも唐からさして軽視されない。」という確信が称徳天皇本人にも周囲にもあったからこそ、本人も遠慮なく武則天の様に振る舞い、周囲からの掣肘する力も弱まったのであると思われる。
 もっと言えば、推古天皇から称徳天皇までの時代に女帝の比率が極端に高い事についても、大陸の影響を観念出来る。
 中国の北朝やそれを受け継ぐ隋唐は、南朝や他の時代の諸王朝と比較して女性の力が強いように思われる。例えば、西暦528年には北魏で女性が皇位を継いでいる。隋の独孤皇后の強烈な性格も有名である。そして唐では武韋の禍がある。
 そして、隋が天下を統一してから唐が衰微するまでの期間が、ほぼ日本の推古天皇から称徳天皇までの時代と重なっているのである。
 隋が陳に勝って天下を統一したという情報を得たからこそ、蘇我馬子は安心して推古天皇を擁立出来たのかもしれない。
 七世紀中葉に新羅で二代続けて女王が即位出来たのも、同じくこの時期の東アジアで女性の君主がさして周辺諸国に侮られなかった事が、大きな理由の一つなのだろうと思う。
 また流石にこれは偶然かもしれないが、後に称徳天皇となる孝謙天皇が一時的に退位して淳仁天皇に位を譲っていた期間は、唐王朝の存亡が不明だった安史の乱の期間と、ほぼ対応しているのである。

神皇正統記 (岩波文庫)

神皇正統記 (岩波文庫)