第四回「真の近現代史観」懸賞論文について

 私は、アパグループ「真の近現代史観」懸賞論文の第一回から第三回までの最優秀論文をそれなりに丹念に読み込んで批評してきた(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081107/1226009194http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091122/1258875769http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20101229/1293610697)。遅ればせながら、このページ(http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/2011japan.html・最終閲覧日時は西暦2012年4月29日14時49分)に掲載された第四回の最優秀論文も批評してみたい。
 この論文の題名は「福島は広島にもチェルノブイリにもならなかった」であり、副題は「東日本現地調査から見えた真実と福島復興の道筋」であった。この時点で、これは「真の近現代史観」というテーマとはほぼ無関係ではないか、という疑念が浮上した。
 そして実際に本文を読んでみて、疑念が確信に変わった。福島の放射線の話が主題であり、それとはほぼ無関係な形で戦後の反核運動への批判がほんの少し盛り込まれているというのが実態であった。
 中国の核実験の話題やそれを日本の反核運動やマスコミが無視・軽視したという話題の文字数をもっと減らし、一方で日本の反核運動が核の脅威を原則として実態以上に煽ったという話題の文字数をもっと増やし、彼等の影響力のせいで福島の報道被害が大きくなったと最後につなげれば、執筆者の盛り込みたかった話題を全て維持した上でテーマに沿った論文が仕上がったであろう。それをしなかったのは、おそらくはカザフスタンや福島で自分が関わった研究について大量の文字数を費やして語りたいという自己顕示欲のせいであると思われる。
 懸賞のテーマすらろくに理解していないこの様な論文を最優秀賞に選んだ審査委員にも、大きな責任がある。そして「真の近現代史観」というテーマに真正面から取り組んだのに次点にされてしまった中松義郎氏が哀れである。本日私は、生まれて初めて中松氏への同情をしてしまった。
 続いて批判しておきたいのは、「論文」の名には相応しくない文体である。冒頭の「菅直人が核の”危険”で火を焚き、左翼リベラルと日和見の学者が手伝い、一部だが多くのメデイアが炎上させ、心理的な火あぶり状態となった福島県放射線集団ヒステリー日本。」や「中国の領土、領海拡大政策、まさに二十一世紀の帝国主義国家。」等、比喩・体言止めの大量使用と接続詞の過度な省略により、論文というよりも詩の様になっている箇所が多数見られた。
 この傾向は何かを「証明」するための重要な個所にまで及んでいる。「世界一の長寿国が数ミリシーベルトの骨髄被曝が問題ないことを証明している。」という部分があるのだが、これは文脈から判断するに、「日本が世界一の長寿国であることが、数ミリシーベルトの骨髄被曝が問題ないことを証明している。」という主張であった可能性が非常に高い。
 また主張しておかなければならない筈の重要な情報が抜け落ちている文も多かった。例えば「昨年の九月七日、尖閣諸島海域で起こった中国漁船の衝突、政府は接触事故という風に片付けようとしたけれども実は体当たりだった。」は、「昨年の九月七日に尖閣諸島海域で起こった中国漁船と海上保安庁の巡視船との衝突事件は、政府は接触事故という風に片付けようとしたけれども、実は中国漁船側による意図的な体当たりだった。」とでも書くべきであったと思われる。
 また「当時の屋外空間線量率の推移から想像して、ミリシーベルト程度とチェルノブイリの百分の一以下だ。」という部分も問題だ。「ミリシーベルト程度」というのは、おそらく「数ミリシーベルト」を意味するのであろう。執筆者の業界ではあるいは普通の表現なのかもしれないが、仮にそうであったとしても、異分野の人間に読んでもらうのを前提とした論文でこうした表現を使うのは適切ではない。
 因みに、英訳(http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/2011einglish.html・最終閲覧日時は西暦2012年4月29日17時35分)では、補足説明や文体上の工夫によって、こうした欠点はある程度是正されている。中々に面白い傾向である。
 また批判対象や主張の根拠の出典についても、過度な省略が見受けられる。
 第一段落を例に挙げて検証する。 
 ここには「福島のセシウムは広島核の百六十八倍と無意味な数字で、新聞は不安を煽ったが、」という部分がある。これだけならば一々事例を挙げなくても良かったかもしれない。しかしその後、突如として「こうした核爆発災害のイロハも知らない原子力安全・保安院の話を鵜呑みにするようでは、新聞のレベルが低いと言わざるを得ない。」という話が出てくる。ここまで話を具体化するならば、「原子力安全・保安院の話」とそれを鵜呑みにした新聞記事を紹介するべきであろう。
 そして非常に皮肉な事に、「原子力安全・保安院の話」の内容・出典の紹介を怠ったがために、執筆者が「これこそ真実だ!」という意図で書いたと思われる「昭和二十年にセシウムで死んだ人は一人もいない。三十年の長半減期の核種からの線量は無視出来るほど少ない。放射能半減期に反比例するので、秒、分の短い半減期の核からの放射線が危険だったのだ。」の部分が、「こうした核爆発災害のイロハも知らない原子力安全・保安院の話」であると誤読されかねない構成になってしまっている。
 こうした出典不詳の話が第一段落以外にもこの論文には多数存在する。その中でも特に酷いのは、「漏えいした機密文書によれば、七十五万人が殺されている。」の部分である。この機密文書とやらについては、どこの国のどんな組織からどう漏洩し誰がどういった経緯で入手したかといった情報が、一切書かれていない。これに比べれば、「原子力安全・保安院の話」だの「長年の放射線医学総合研究所の解剖死体の骨の分析」だのといった話は、出典不詳とはいえヒントが付されている分だけまだしも親切な部類に属する。
 論文執筆のイロハも知らない人が「出典」という発想が無かったためにこういった文を書いてしまったのであれば、それなりに酌量の余地がある。しかし末尾には参考文献が連ねられているので、どうやら酌量の余地は無さそうである。
 接続詞・助詞・助動詞の過度な省略。重要な情報の省略。数値等の表記の省略。出典の省略。これらの問題に共通しているのは、「省略」である。概してこういった文章が書かれる背景には、丹念に説明しなくても相手に解って貰える筈だ、という思いが存在するものである。志や情報を共有する内輪向けの文章を書く場合には、この種の省略は適切な文章作法なのであるが、論文の執筆作法としては相応しくないだろう。そして省略部分を過度に読解してしまった審査員にも責任がある。
 この論文には「東日本現地調査」だの「九・一一米国を狙ったテロ」だの「広島黒い雨」だのといった略し方が奇妙な独特の略語が多数登場しているが、これらも根は同じであると思われる。「他者」という概念が発達していない子供が犯しがちなミスである。
 そうと判ると、初読時には意味不明であった部分の謎も解けてくる。
 例えば「それが、フランスをはじめとしたIAEAに結集する責任ある国家の立場である。」については、当初は何故フランスが「はじめ」なのかさっぱり解らなかったのだが、今では著者のみぞ知るフランスが「はじめ」になる理由があったから「はじめ」になったのだと理解している。
 最後に、表記上の些末な問題も一応紹介しておく。最後の方で「二本松、福島、南相馬いわき市、郡山」が並列されていたが、「いわき」にだけ「市」を付けているので、まるで「いわきいち」という名前の市町村が存在するかの様な印象を受けてしまう。また「真の脅威を直視し、」とすべき部分が「真の驚異を直視し、」となっていた。