『ファイナル・ジャッジメント』

 以前幸福の科学の映画『仏陀再誕』を紹介する記事を書いた(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100925/1285341117)。そして悪役である「荒井東作」の言動が池田大作氏よりも大川隆法氏に近いという指摘をした。その後コメント欄で紹介した通り、それはそもそも教団内反主流派による意図的なメッセージであった可能性が高いという分析がある事を知った。真相については謎であるが、この問題については教祖の離婚騒動等と相俟って、大いに興味をそそられた。
 そして件の脚本を書いた大川宏洋氏(教祖の長男)が、今回は企画者として『ファイナル・ジャッジメント』(http://www.fj2012.com/)なる実写映画に携わったと聞いた。そこで早速観に行ったので、本日はその感想を発表したいと思う。
 まず、話の筋を非常に単純化して紹介する。
 王蘭国の脅威を「未来維新党」が訴えるが誰も耳を貸さなかったため日本は王蘭に併合される。未来維新党の先見の明は世界中で注目され、主人公「鷲尾正悟」は演説の動画を通じて本人も知らない内に世界的有名人となる。正悟はレジスタンスに加わった後に宗教を学んだので、その演説の魅力は更に強くなる。彼の最高の演説は世界中に配信され、世界を一気に平和にしてしまう。
 続いて、最大の興味であった親子の相克についての話題を先に片付けておく。
 正悟の父「鷲尾哲山」が「民友党」という左翼政党の有力者であるのに対し、正悟は前述した未来維新党の有力者である。悪魔が哲山に変身して正悟を堕落させに来る場面もあり、そこでは正悟は「お前は父ではない。」と宣告して悪魔を倒してしまう。宏洋氏によるクーデターを待ち望む人にとっては愉快極まりない場面であったと思われる。
 また悪役である「ラオ・ポルト」の敗因は、本物の身内を信用しないで形式上の養子ばかり重用していた事にあった。本妻よりも側近を尊重した某氏への批判と見做せなくもない。
 ただし本作が単なる「父殺し」の物語かというと、そうではないというのが私の結論である。
 哲山が正悟を少なくとも努力家である事だけは認め自慢していた事が中盤で明らかになり、その知識は前述した悪魔との戦いで役に立っていた。戦いの後の正悟は、父と理解し合えなかった原因が自分にもあると反省している。
 また副主人公「中岸憲三」は、自分の父「中岸雄二郎」を哲山にも劣る人物だと見做していたのだが、実は雄二郎は息子より数段高い境地に至っていた事が後に明らかになり、結局は憲三の方が学ぶ立場となっている。
 ヒロインも幼い日に自分が過度に純粋だったため両親を死なせてしまうが、結局は両親の霊の御陰で高いステージに至っている。
 親子の関係というものを様々な角度から描く事で、一筋縄で理解出来るものではないという事を表現したのではないかというのが、私の分析である。
 次に紹介したいのが、直接的には劇中の親子対立ではないものの、幸福の科学または幸福実現党の(自己?)批判とも解釈出来る描写である。
 悟りきれていない時期の正悟が未来維新党で行った演説は、憲法九条の改正による国防の強化を主体とするものであった。大敗北の後、多くの党員は打ちひしがれて自暴自棄になるが、本当に熱心な党員は「反省」を主張していた。
 そして「暴力では何一つ解決せん。」と主張する非暴力主義の雄二郎に導かれて実際に反省した後に正悟が採用した、全人類への別け隔てのない愛を込めた演説で全てを解決するという手法は、幸福実現党等からはしばしば攻撃の対象になる、憲法九条の理想を世界に広めて、世界を平和にしよう」という左翼的な手法と酷似している。
 「宗教団体の使命は、武力による一国の防衛なんぞではなく、言論による世界平和なのです。」という教訓が導けそうな展開であった。
 また王蘭国に併合された日本で、通用の禁止を宣告された一万円の札束が回収されてゴミの様に捨てられていく様は、九億円もの供託金没収を「ゴミみたいな」と豪語した某氏への皮肉かもしれない。
 次に個人的に感動した個所を述べる。
 まず王蘭が宗教を禁止した後も死の危険を冒して様々な信仰を守る人達の姿は、涙が流れる程神々しかった。終盤で諸宗教を包括するだの何だのという形で登場した正悟の教義には全く心が動かなかった私だが、無言の祈りの前には素直に敬服した。
 また「レジスタンスにスパイが混じっているか?混じっているとして誰か?」についても、私の勘が鈍いせいかもしれないが、裏をかかれた。フェイクの情報の出し方は中々見事であり、感服した。
 続いて残念だった個所を述べる。
 まず正悟が座禅で悟る際に、髭がまるで剃りたての様な状態だったのが残念だった。これでは座ってから長くても数時間以内に悟れた事になってしまう。実際にはそういう天才が存在しても良いとは思うのだが、もう少し苦労させた方が映画としては良かったのではないかと思う。
 次に、走って逃げる正悟に対して王蘭兵がほとんど銃撃を行わなかったのも不自然であった。勿論、だからといって撃って撃って撃ちまくってしまうと、その全てが外れた事への言い訳が難しくなるのは解る。故に私ならば、その兵士達が既に正悟への監視を通じて知らない内に感化されていたために、いざ撃とう撃とうとしてもついに正確には撃てなかった、等という美談に仕立て上げたであろう。
 そして一番残念だったのは、敵の総大将であるラオ・ポルトの権威の無さである。多めに見積もっても僅か数百名程度のレジスタンスを急襲する作戦において、彼はわざわざ現場で指揮を執り、しかも約十名には逃げられてしまう。また当初は公用語を王蘭語に定めた筈なのに、終盤では王蘭人の部下との会話においてすら訛りのある日本語を使っている。名目上こそ総督のままだが、実は既に海千山千の日本の政治家に実権をほとんど奪われて傀儡と化しているのかもしれない。
 最後に疑問点を二つ述べる。
 その一、終盤で正悟が乗る車のナンバーが「1985」だったのは、大川隆法氏の西暦1985年における活動が何か関係しているのだろうか?
 その二、消防用の「放水」が、憲三の妄想の中で日本人の頭を冷やすために転用されたり、王蘭兵への抵抗として実際に役立ったりするのは、放水が約半世紀前の学生運動鎮圧の手段であった事と、何か関係があるのだろうか?