『牙狼<GARO>』(蒼哭ノ魔竜)

蒼哭ノ魔竜
 冒頭、涼邑零・山刀翼・布道レオの三人が登場する場面がある。一見すると本筋とまるで無関係であり、人気キャラクターを無理に登場させたかの様な場面なのだが、最後にこれが重要な伏線であった事が判明する。中々見事な構成であった。
 またこれに関してだが、『妖赤の罠』(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20111213/1323705762)で登場した、死人との面会権を賭けた魔戒騎士のトーナメント「サバック」が、公式設定として取り入れられていた。小説版のファンとしては嬉しい限りである。
 ただし映画では術の使用が反則ではないという設定に変更されていた。小説版がパラレルワールドなのか、それとも今大会から規則が変更になったのかは、不明である。
 もしも今回から規則が変更になったのだとしたら、その原因はほぼ確実に、前回のサバックで榊闘次の不文律違反を朱雀議長が黙認したという判例であろう。闘次は絵に描いた様な噛ませ犬であったが、案外魔戒騎士の歴史を塗り替えた一人であるのかもしれない。
 本筋は『MAKAISENKI』の第24話(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20120229/1330527514)で予告されていた通り、冴島鋼牙がガジャリとの契約に従って「約束の地」に行く話である。
 約束の地は時間の流れが激しいらしく、到達がほんの数秒違っただけの鋼牙とザルバとの間で数百年の差が生じていた。それでいて鋼牙が着いた時こそが、魔竜復活の直前だったのである。これは天文学的低確率の偶然と看做すよりは、鋼牙の到達こそが魔竜復活の条件であったと見做すべきであろう。目的であった「嘆きの牙」の正体もまた、この説を補強すると思われる。
 約束の地は人間が創って忘れた「モノ」の世界である。「モノ」は「無」に帰し易いが、名を付けられる事で復活したりもする。これは人間が、「全集合」の一部を切り取り加工して、概念を付するに値する個体を一時的に創出する過程を表現していると思われる。この点には言霊思想の影響も見受けられるし、またいつもながら仏教の世界観の影響が見て取れる(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20111215/1323876432)。
 「モノ」の一つであるジュダムは、勝手に自分を創って忘れた人間に対し、強い敬愛と憎悪とを併せ持っている。
 ヨーロッパにおける絶対的な「創造者」と人間との間の愛と憎悪とを表現するために、それとパラレルな関係にある人間とその被造物との関係を描くというのは、『フランケンシュタイン』等に見られる古典的な手法である。最近の日本の作品でも『Rozen Maiden』のローゼンと水銀燈の関係は、この手法の影響を受けていると言える。
 本作もその系譜にあると言えるだろう。人間への反逆を企む「ジュダム」の名も、ほぼ確実に「イスカリオテのユダ」を参考にしていると思われる。
 この系譜の中で本作の独自性が光ったのは、このユダヤキリスト教的構造が生み出した憎悪の体系を、鋼牙が「全てのモノ(者/物)が常に相互作用を与え合って変容し続けている」という仏教的世界観によって浄化するという点である。すなわち、人間とモノの関係は、ある瞬間に人間がモノを創って終わりなのではなく、人間も日々モノによって形作られ続けるという世界観の提示によって、ジュダムの憎悪の因果を断ち切ったのである。
 『RED REQUIEM』(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20111212/1323616291)で「カルマ」の手下に「クルス」と「シオン」がいた件を鑑みても、監督の意図がユダヤキリスト教のもたらす因果を仏教によって乗り越える事だったのは、ほぼ確実であると思う。