一気読みをして真価が理解出来た漫画『ぼくらはバラの子』

ぼくらはバラの子 1 (花とゆめCOMICS)

ぼくらはバラの子 1 (花とゆめCOMICS)

ぼくらはバラの子 2 (花とゆめCOMICS)

ぼくらはバラの子 2 (花とゆめCOMICS)

ぼくらはバラの子 3 (花とゆめCOMICS)

ぼくらはバラの子 3 (花とゆめCOMICS)

 水森暦氏の『ぼくらはバラの子』という漫画を、かつて一巻ずつ発売されるごとに読んでいた。
 その頃もそれなりに価値を認めていたのだが、昨日一気に全巻通し読みをして、伏線の見事さに気付かされ、漸く真価を理解出来た。
 急速に成長していく宇宙人の子と、彼女を取り巻く小学生達が主役であり、全体を貫く主題は「愛情」である。
 「平和倖成」の実母(本名不明。以下「Xさん」と表記)は、子供への愛が幼い独占欲という形で身勝手に発揮されている。そのため、自傷行為程度かそれ以下の気軽さで、子供に暴力を振るった過去があった人物である。
 そしてその親子の物語と並行して、「大谷地清」を独占したい「歌代ありか」の物語が描かれる。小学生の愛情なので、その幼稚な愛は決してグロテスクなものではなく、誰しもが「昔はあーだったなー」と照れる様な微笑ましいものである。そしてありかもふとしたきっかけにより、途中で反省して大人流の他人の愛し方を知るのである。
 これらは別個に語られる物語なのだが、一気読みをする事で「Xさんはありかみたいなきっかけに出会えないまま年齢だけ重ね、ついに脳が少女のまま子供まで産んでしまった人なんだな〜」と理解出来る仕組みになっていたのである。
 そしてXさんは、「暴力男から逃げてきたの」という活字の台詞とともに、手書きの小さな文字の台詞で「そんな人にばっかり好かれちゃって」と語っている。Xさんもまた、彼女の男性版みたいな人物の犠牲者であるとともに、同じ愛し方の人間としか付き合えない(「付き合い」だと認識出来ない)のだという事が、遠まわしに示唆されている。
 倖成の境遇と悪い意味で対極的なのが、「羽柴祈」の境遇である。彼の両親には息子への執着心というものが、逆に全く無い。完全に放置である。倖成と祈は、立場が逆だからこそほぼ同じ類型のトラウマを抱えており、惹かれあっている。
 そして利他と利己とが複雑に混ざった状態で、祈は倖成のために、ある罪を犯すのである。祈は風貌も思考も大人びており、愛の暴走についても幼稚さ故のものではなく、大人に多い複雑な形式を描くのに使われた感がある。
 「加藤小次郎」は、対人関係ではかなり常識人に見える。しかし全巻を通して読み、愛がテーマの作品だと理解した上で考えると、彼もまた歪んだ愛情を克服した主人公の一人であり、その歪んだ愛情とは「低レベルな自己愛」であったとわかるのである。
 そしてこの五人の主人公の「愛情」という感情の発露の仕方の成長の物語において、台風の目の様な要となるのが、彼らに育てられている宇宙人「ばら子」なのである。
 ばら子は、地球人と比較して急速に成長するという特質と、体から殺傷能力のある棘を生やせるという特質を持っている。
 普通に読み流していると一番特殊なキャラクターに見えるのだが、成長の速度は「主役キャラ達の心の成長」を象徴的に描いた現象だとも言える。また彼女の体から生える棘とは、「愛した相手に不用意に近付き過ぎると、Xさんや序盤のありかの様に逆に相手を傷付けてしまう」という歪んだ愛のもたらす副作用を描いたものなのであろう。
 だからこそ題名が『ぼくらはバラの子』なのである。
 なおここでは紹介しきれなかったが、巻をまたいだ壮大な伏線・対比関係は他にも山程ある。
 こういう「全部一気に読んでみて、ようやくその見事な構成が解る」作品が、それと本来は相性の悪い「連載」という形でしか発表出来ないというこの世の事情が、やや残念に思えた。とはいえ、読者を定期的に楽しませる作品もなければ、漫画文化そのものが衰退してしまう事も事実である。
 それにしても、一巻毎に読んでも真価が解り難いこの作品を、一話毎に読んでいながら初期の段階でその価値を理解し、私に勧めてくれた某氏は、真の読み巧者だと思う。日本の漫画の質と量のバランスを上手に保っているのは、こういう偉大な読者なのかもしれない。