「国連は中立である(べき)か?」という議論の副作用について語ってみる。

 リアルタイムで視聴したのか録画で視聴したのかは秘密であるが、歴史教科書問題に関する討論番組を視聴した経験がある。
 ある教科書が国粋主義的かそうでないかをめぐる論争だったのだが、その中で反対派の一人が「大日本帝国憲法はアジアで最初の憲法とか書いているけど、ミドハト憲法の方が先だ。」と主張し、執筆陣が「トルコはヨーロッパだ。」と反論する場面があった。
 結局その部分の論争は深められる事なく、全体的に「日本の誇りvs東アジア諸国の反発」が議論の中心のまま番組は終わってしまった。
 だが私個人の印象に残ったのは、このトルコの所属問題の方であった。
 「大日本帝国憲法はアジアで初の憲法だ」と教科書に書くと、「トルコはアジアなのでEUに入らないで欲しい」と思っている多くの現EU諸国の人々と一部のトルコ人の心を傷つける事になり、「大日本帝国憲法はアジアで二番目に出来た憲法だ」と教科書に書くと、「トルコはヨーロッパなのでEUに入るべきだ」と思っている多くのトルコ人や一部の現EU諸国の人々の心を傷つける事になるのだと、その日に気付いたからである。
 自分達が軽く触れた問題の深刻さに気付かないまま、「日本の歴史教科書問題は、日本とその周辺諸国の問題」というのを自明の前提として議論を続ける論客達と司会者が、それ以降は一回りも二回りも矮小な存在に見えてしまったものである。
 最近も似た様な論争を目にした。
 国連事務総長が中国の戦勝記念の式典に出席した際に、「国連は中立である(べき)か?」という論争が行われたが、賛成者も反対者も、国連事務総長を糾弾するか庇うかばかりを考えている様に感じられたのである。
 管見の限りでは、ネットにおけるこの議論の参加者達は、「国連は中立なのか?」を何十年も考え続け激しい論争の末に疑いながら国連に加盟したスイスの人々の事は、誰も話題に出さなかった。自分の主張がどちらであれ、巡り巡って数多くのスイス人を怒らせるという事実に、全く気付いていなかったのである。
 この記事は、議論の個々の参加者を批判しているのではない。誰しも興味の深い分野や得意分野というものはあるだろうから、スイスにはまるで関心の無い人というのも一定数居て良いと思う。それは個性だ。
 だがやはり、「誰もスイスを引き合いにしなかったのは、総じて実に矮小な論争だったな〜」と思うのである。