話題になっていない竹田論文を読んでみた。

 去年私は、当時話題になっていた田母神論文を批判した(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081107/1226009194)。
 そして先日、去年田母神論文が最優秀賞を勝ち取った懸賞が今年も行われていた事を知り、今年の最優秀論文を読んでみた。
 以下は、現在このページ(http://www.apa.co.jp/book_report2/index.html)から行けるこのテキスト(http://www.apa.co.jp/book_report2/images/2009jyusyou_saiyuusyu.pdf)の西暦2009年11月22日夕刻時点の内容を元に書いたものである。
 中盤に前半の主張を纏めた「図表 主権の定義によって主権者は変わる」が登場する。これで前半で言いたかった事が大体解る。
 「(2)主権を実質的側面から定義した場合」と「(3)主権を形式的側面から定義した場合」とが論者自身の分析であり、だから「(1)主権の定義を混同させた嘘吐きの方程式」は間違いだという訳だ。
 「主権は天皇と国民の絆の上に成立する」の章に「憲法改正の例で示せば、憲法改正の内容を決定するという主権の実質的側面は国民が担い、憲法改正を公布し発効させるという主権の形式的側面は天皇が担うのである。前者を「権力」、後者を「権威」と置き換えると分かりやすい。」とあり、これが図表に結びつく論拠であると思われる。
 余程特殊な「主権」の定義を作れば、「ほらこう言えなくもないだろう。」と、理論上は通説と引き分けの形に終われたかもしれない。しかし既存の教科書を嘘吐き呼ばわりするためか、同章で「国の政治のあり方を最終的に決定する力」という、最高決定権としての主権の定義としては普通のものを採用してしまっている。
 さてここからが私の反論なのだが、「形式」というなら憲法の条文に勝るものはあるまい。日本国憲法第1条では主権は日本国民に存するとしている。因みに「天皇はもはや象徴に過ぎないのか」の章では、「世界の常識によると、憲法第一条には、国にとって最も大切なことを記すのであり、そこにどうでもよいことが書かれるはずは無い。」とされている。
 そして、天皇が同第7条の「公布」を行わなければ憲法も改正されないといった話は、「形式」より寧ろ「実質」の話だろう。
 仮に御不例やサボタージュ等によって憲法改正が「公布」されなかったとしても、それは同第3条や同第99条に従えば、形式的には拒否権が行使された状態ではなく、単に事務が遅滞しているだけの状態である。決定が覆ったのではないのだから、国民としては革命を起こす他にも天皇の快癒なり勘気の和らぎなり次の天皇の即位なりを気長に待つという選択肢が残されているだろう。
 こうして見ていくと、天皇の権能はあまり変わっていないだの「転落」は言い過ぎではないかだのといった見解の方は、既に言い古されているそれなりに正しい説に則っていると言えるが、学校の教科書は主権の定義を混同させて嘘を吐いているといった見解の方は、論証に失敗していると言える。「彼の説には、正しい所もあれば正しくない所もある。また新しい所もあれば古い所もある。そして残念な事に、新しい所が正しくない所だ。」という陳腐な皮肉が実に良く当て嵌まる。
 以下、本筋以外の問題点も紹介してみたい。
 「教科書に隠されたトリック」の章の後ろから二番目の段落は、「後述」を先取りしたものである。ここではまだ「天皇が持っていたとされる主権と、国民が持ったとされる主権が別のものであれば、」と仮定的に語られている。それなのに次の段落では、「これではまるで、「父親の饅頭が、息子のケーキになった」と言っているようなもので、意味が通らない。」と、もう結論を前提にした例え話をしてしまっている。最終的には結論に共鳴した読者すら、この段階では何の事だか解らなかったであろう。
 この段落はもっと後の方に置いた方が効果的であっただろう。あるいは「これでは」の部分を「これは」としておけば、それなりに読者に興味関心を持たせる段落になっていただろう。
 「主権の定義によって主権者はいかようにも変わる」の章には「また軍事に関しては、軍政は陸海軍大臣、軍令は軍令部の長がこれを担い、内閣総理大臣の人事は総理経験者から成る重臣会議が行った。」という記述がある。軍令部が登場して参謀本部が登場しないとは、何たる海軍偏重であろう。これを例えば陸軍で活躍した竹田宮恒久王殿下や竹田恒徳氏といった方々が読まれたら一体どんな気分になられるだろうかと考えると、思わず目頭が熱くなる。
 ところが「戦前は専制君主だったのか?」の章を読み返してみると、「統帥部」という言葉がしっかり使われているのである。去年の田母神論文と同じく、こういう所から複数の著作物の切り貼り疑惑が出てくる。田母神俊雄氏も竹田恒泰氏も、それなりに真っ当な経歴を持った人物なのであるから、唐沢俊一氏の様な行為は慎んで欲しいものである。