某漫画やそれを嘲弄する文章を読みすぎると、アナグラムという発想は随分怪しいものだという印象を根強く植えつけられてしまう。
しかしながら、ある種の文字の配列によって受けてしまう印象を読み手の側で意識的に分析する事は、それなりに意義のある行為だと思われる。
一例として『MMR』という講談社の漫画を分析してみたい。
この漫画は、主人公達がノストラダムスの予言を解釈して宇宙人や謎の組織による恐怖の計画を見抜くも、常に見抜くのが遅過ぎて結局何も出来ないまま手を拱いて終わるという内容である。
「講談社対幸福の科学」と聞いて、フライデー事件だのヘアヌード論争だのを思い浮かべる方も多いだろうが、実はこんな所でも二大組織は己の信じる世界観を賭けて闘争していた事になる。結局世界は滅びず惜しくも予言勝負は引き分けに終わったが、これも水面下で一進一退の攻防が繰り広げられた結果の痛み分けだったのかもしれない。
MMRのメンバーは、隊長のキバヤシ、副長のナワヤ、そして隊員のタナカ・イケダ・トマルである。
「何故片仮名なんだ?」と思った方は勘が良い。実はここにこそ究極の暗号が秘められていたのである。
まずタナカやイケダは、それを読んだ日本人は一瞬で「田中」・「池田」と脳内変換してしまうので、特に妙なイメージは植えつけられない。そのせいもあってほとんどその存在を忘れられている。
キバヤシ!その名を読んだ子供はそこで思考を開始してしまう。「木林」かな?「木場屋志」かな?「牙香具師」かな?と。結局保留して片仮名のまま読み続けると、いつのまにか「気早し」という印象が心の何処かに染み付いてしまう。
そう、「キバヤシ」には、「ちょっとしたこじ付けを思い付くと直ぐにそれを結論にしてしまう気の早い奴。」という人物紹介が込められていたのである。
ナワヤ・・・同じ理由から、「縄屋」で自縄自縛男。組み替えて「柔奴(ヤワナ)」で柔弱野郎。「わや奴」で枉惑野郎。
トマル・・・「止まる」。キバヤシの言いなりになって思考停止。
つまり、「御意見番として機能しない頼りない副長のせいで隊長がどこまでも増長し、隊員も隊長の思い付きを絶対的に信仰した結果、低レベルな新興宗教級の教義が聖典化されてしまう。」という筋書きは、主要登場人物の名前の中に暗示されているのである。
悪ふざけはそろそろ止め、本題に入る。
最近、コレットの『青い麦』という作品を堀口大學訳で読んだ。
それなりに面白く感じたのだが、読み終えてふと気付いた。日本語では、ヒロインの名前「ヴァンカ」が、内容やテーマに似合い過ぎているのである。
本作品の内容は、夏の終わりに一対の少年・少女が互いに性を強く意識するというものなのだが、それはつまり「晩夏」を舞台にした少年期への「挽歌」なのである。
果たして私は、ヒロインが別の名前だったとしても、この作品に感動出来たのであろうか?そんな事を考えてしまったのである。
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