ノーベル賞とナショナリズムの関係をめぐる議論で見過ごされがちな寿命の問題

 日本人のノーベル賞受賞に浮かれる態度にも、それらへの批判・警鐘にも、様々なレベルのものがある。
 底辺クラスでは、受賞者への自己の無自覚な投影による驕りと、「お前が優秀なわけでもないのに!」という原始的な批判がぶつかりあっており、数の上ではひょっとしたらこういう「議論(?)」が一番多いかもしれない。
 だが一定の質以上の言論の世界では、ノーベル賞級の成果のためには、それを支える社会的背景が必要である事を認めた上で、誇りと警鐘が衝突している。
 「昔なら一生単純作業をする庶民として終わっていたかもしれない人材を抜擢し、自由な研究活動・言論活動・創作活動を認め、文学を嗜み自然科学の研究に適切な予算を配分する社会であってこそ、ノーベル賞の栄光に輝く人材を輩出しやすい。そういう社会を維持している一員である事が誇らしい。」という態度に対し、「最近の自然科学部門のノーベル賞では、評価の対象となった研究成果の誕生から受賞までに、約四半世紀の期間があるのが普通だ。文学における実績と評価の時間のずれについては、昔から存在していたので猶更である。だが最近の日本は二十年前と比べて、貧困層への教育や大学における基礎研究への支援が疎かになっている。一昔前の成果の結果に驕っている場合ではない。」という批判が寄せられるという具合に。
 これは中々ハイレベルな議論ではあるが、まだもう一点、あまり論じられていない問題があると考えている。
 それは既に紹介した実績と評価の時間のずれと密接に関わる話題、すなわち「寿命」の問題である。
 ノーベル賞は、生存者か死の直後の人間しか受賞出来ないシステムになっている。
 故に、選定に当たって「地域」というものがほとんど考慮されない実力主義の自然科学部門においても、現在の科学の優劣の勢力図どころか二十年前の科学の優劣の勢力図すら、あまり正確には反映されていないのである。
 ノーベル賞ナショナリズムに燃えるにせよ、それへの警鐘を鳴らすにせよ、この「寿命」という問題を取り入れれば、発言が極めて奥深いものになると思う。