本気でノーベル賞の権威に挑んでみる人はいないものか?

 ノーベル賞、特にノーベル平和賞の対象の選定については、物議が醸される。今まで多くの人がノーベル賞の権威に挑んできた。
 挑むといっても、態様は様々だ。
 まず、「こいつはいかん。そいつは早過ぎる。あいつは共同受賞すべき。A作の子孫は賞を返上すべき(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100210/1265730512)。」と文句を並べたてる手法がある。これは、本人の意図はともかくとして、外部からはノーベル賞の権威を原則として認めた上で微修正を促そうという運動に見える。
 また「ノーベル賞なんて下らない!」と距離を置こうとする運きもある。しかし本気で無視出来ている人は少ないし、またノーベル賞の権威の前では微力だ。しかもこの手法・言説は、「賞は全部下らない。ノーベル賞はその中ではマシな方。」という見解に容易に転化する。
 嫌がらせで「孔子平和賞」を創設するという手法もあったが、これは笑いものになるだけだ。だが後述する様に、ここに解決への道標があると思う。
 いっそ本気でノーベル賞に対抗する賞を創設し、公正さを競ってみてはどうか?と私は考えた。
 これは中々辛い道である。予算の関係から、個人では不可能だ。しかも今までノーベル賞がやられてきたように、無責任な批判・無視・対抗を自分達もやられる事になるだろう。
 それでももし、世界中の過半数の人から「あの歴史の浅いX賞は、公正さにおいてノーベル賞を遥かに凌駕している!」と認められれば、ノーベル賞なぞは数あるマイナーな賞の一つになっていくだろう。