元号は、その計算のし難さこそが人気なのかもしれない

 昭和だの平成だのといった元号は、率直に言って計算が面倒だ。「慶応二年にこんな事件があってね。」等と言われても、それが何年前の事件だか瞬時には判らない。
 しかし皇室に思い入れのある人々にとっては、特別な意味を持っている事も判っている。
 そうした次第で私は長年、元号廃止!皇紀復活!」を主張してきた。
 皇室が好きな人には、好きな制度の数が維持されたまま計算がし易くなるので、二得一失である。皇室が嫌いな人にも、同様に二得一失である。皇室なんかどうでも良い人には、純粋に一得である。
 所が、この私の意見に賛同してくれる人はほとんどいなかった。不自然な程いなかったのである。当初は傲慢にもその理由を民衆の愚かしさに求めていた私だったが、余りに賛同者が少ないので漸く重い腰を上げて自説を再検討した。
 そしてこんな仮説に辿り着いた。元号は計算し難いからこそ人気なのではなかろうか?」と。
 皇紀を用いて計算がし易いと、例えば皇紀2645年に自分や日本が犯した過ちについて、「嗚呼、28年前は大失敗だったなぁ。」といつまでも正確に反省しなければならない。しかし元号なら、「昭和60年頃に失敗したなぁ。あれは何年前だったかいのぅ。」と、厭な記憶を忘却の彼方に送り易い。
 そしてそもそもかつて「改元」が持っていた縁起直しの機能も、こうした「今日から先は新世界です。過去は計算を面倒にして思い出し難くして、忘れましょう。さあ心機一転!」という効果を狙ったものだったのかもしれない。
 この仮説が正しければ、私が長年唱道していた案は、誰にとっても一得二失または純粋な一失であり、故に当然に賛同者が極端に少なかったという事になる。