ダブルスタンダードを批判する「冷笑系」にお困りの皆様へ

 最近、韓国籍の人物が日本で仏像等の像を大量に破壊したという報道がなされた。
 なお「という事件があった。」ではなく「という報道がなされた。」という表現にしたのは、私は判決が確定するまでは表現の上では無罪を推定すべきだと考えているからである。
 ネット上では既に、被疑者が犯人であるのを前提にした議論がなされており、最終的にはそうした風潮を変えたいと思っているが、それは今回の記事の本題ではない。
 この事件についての議論の中には、「あくまで特異な個人の犯行として処理すべき」とする見解と「自国民に対して過度に反日を煽った韓国政府も問題視すべき」とする見解とが対立しているものもある。そしてこの議論における見解の優劣も実はこの記事の本題ではない。
 この議論の参加者の内で、相模原障害者施設殺傷事件については正反対の主張をしていた者がいた場合、論敵や議論の見学者からダブルスタンダードを指摘される事が多い。
 ツイッターの発達に伴い、誰もが気軽に公的な議論に参加出来るようになり、しかも過去の主張が残されるようになったせいで、こうしたダブルスタンダード批判の事例は他の議論においても枚挙に暇がない。
 実は数か月前から暇になったらこの件について語ろうと計画していたのだが、枕として使う予定の時事問題は毎週の様に変わった。それ程に枚挙に暇がない。
 こういうダブルスタンダード批判にやりこめられ続けた人の中には、批判をしてくる人を自分の直接の論敵以上に憎み、「冷笑系」等の蔑称を作って憎しみを募らせていると聞く。
 なお「冷笑系」という単語は別の意味で使われる事も多いので、本稿では最後まで鉤括弧に括り続ける。
 「冷笑系」に対して論理的には何も言い返せないでいる人を馬鹿にするのは簡単だ。「諸君は議論が出来ない「情の人」なので、公的な言論空間に介入するのではなく、一方通行的な投票行動によってのみ政治を動かしなさい。」と通告して、それで終わりにする事も可能だ。
 だがそれはそれで哀れであるし、また本人達に全く同情しなかった場合も、ガス抜きとしての言論活動を奪われた直情径行型の人物達による暴動等については心配しておく必要がある。
 そこでそうした「情の人」に対して私が行いたい助言は、「自分のダブルスタンダードを批判されたら、グッと怒りを堪えてその手法を盗め!」というものである。
 ダブルスタンダード批判というのは、ひっくり返せば批判対象の陰画的な主張をも批判出来る仕組みになっている。
 例えば貴方が左派で情の人であったために、「日本には極左・左翼・中道・右翼・極右の五つの政治勢力があって昏迷している。そこで戦う民主主義を導入して極右を弾圧すれば、極左・左翼・中道・右翼の四大勢力だけが残って美しい社会になるだろう。」と主張し、「冷笑系」から「戦う民主主義が導入されたら極左も弾圧されるぞ。バーカ。」と馬鹿にされたとする。この時に怒りを堪えてその手法を学べば、いつか右派で「日本には極左・左翼・中道・右翼・極右の五つの政治勢力があって昏迷している。そこで戦う民主主義を導入して極左を弾圧すれば、左翼・中道・右翼・極右の四大勢力だけが残って美しい社会になるだろう。」と主張する情の人に出会った時に、同じ様に相手を馬鹿に出来るだろう。
 そうすれば、多少は気が晴れるのではあるまいか。