光孝天皇「基経は阿衡を越えた!」 藤原基経「私なんてせいぜい阿衡です。」 宇多天皇「オイ、阿衡の基経!」

 『日本三代実録』によれば、藤原基経は阿衡事件以前の元慶八年七月には阿衡を自称している。
 この事からいきなり、「阿衡事件において藤原基経が本当に不愉快だった点は「阿衡」自体ではなく・・・」と話をつなげる人を幾人か見た事がある。
 それが学会の通説なのかそうでないのかは知らないが、取り敢えず私には危うい態度に思える。
 そもそも上位者に対して何かを自称する場合、その称号は大概は謙遜である。
 そして最近の阿衡事件関連の記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20180402/1522665141)で紹介した通り、同じく『日本三代実録』によれば、同年六月には基経は阿衡の元ネタである伊尹を越えると光孝天皇から公式認定されている。そういう立場の人による「阿衡」の自称は、ほぼ確実に謙遜であろう。
 そうである以上、「オイ、阿衡の基経!」なんて呼び掛けたら、まあ恨まれるのは必須であろう。
 やはり基経は本当に「阿衡」呼ばわりが厭だったのだろうと私は思うし、異論を唱えるにしてもこの発想は一応は検討して欲しいと思う。
 それにしても不思議だ。現代の京都の人の謙遜には警戒をするのが一般常識であるというのに、どういう訳だか公卿筆頭の藤原基経の謙遜を馬鹿正直に字句通り解釈する者がいるというのは。