そろそろ「なぜ中沢新一は島田裕巳以上に批判されないのか?」を反語ではなく疑問として真剣に扱うべきだろう。

前篇.細く長く続く中沢批判

 オウム真理教の悪が暴かれたとき、かつてオウムを賞賛したりオウムに騙されたりした文化人がマスコミ等から批判を浴びた。

 「その中でも一番叩かれたのが島田裕巳であった」という記憶を持つ人は多い。

 そしてオウムが正体を現すかなり前から観測を続けていた人や、事後的にしっかり調査を続けた人の多くが、「島田裕巳よりも中沢新一のほうが責任が重いのに、なぜ中沢新一島田裕巳以上に批判されないのか?」と叫んだ。

 その叫びは反語としての意味が強く、実際には「中沢こそ批判せよ!」という提唱の意味を持っていた。

 そしてその叫びはあまり影響力を持ち得ず、持ち得ないからこそ細々と25年間続いている。

 そろそろ、マスコミがなぜ中沢を批判しないのかを、新鮮な疑問として真剣に向き合うべきではあるまいか?

後篇.チベット仏教の罪を問わない「ポリコレ」

 「べきではあるまいか?」で終わったのでは、煽りの反語の謳い文句が少し変わっただけになってしまうので、自身の仮説のようなものも書いておく。

 最近「ポリコレ」という概念語で問題視されるようになった、ある種の傾向は昔からあった。その一例が、「A対Bの戦いではBのほうが弱いので、Bが100%正しいことにしよう」という態度である。

 国内問題や西側の問題においてこれが適用されると一般に右派よりも左派に有利に事が進むので、「ポリコレといえば左翼!」と思い込む向きもあるのだが、東側の問題でもこれは猛威を振るっている。

 このため、「中国共産党チベット仏教」の図式によりチベット仏教の批判は日本では半ばタブーとなっている。

 このチベットタブーを「アメリカの陰謀」などのように単純に解している人もいるようだが、沖縄問題では日本のマスコミの多くがアメリカを批判しまくっている現実と整合がつかないので、やはり「各国の弱者側を過度に依怙贔屓している」と見るべきであろう。

 ここ数年、オウム真理教の歴史の再現ドラマが幾つか作られたが(一例→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20140415/1397561212)、管見の限りではオウムとチベット仏教を関連付ける作品には出会えなかった。

 そして中沢をオウム問題で叩こうとすると、自然にチベット仏教の話題を出さざるを得なくなる。

 ならば中沢がマスコミに強力なコネなぞを持っていなくても、自然にマスコミが中沢批判を躊躇してしまうのも当たり前である。