金田一春彦著『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店・2001)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性2 個人的共感1
 まず題名が内容を反映していない。この題名から常識的に想像される内容は、特に話し言葉において流布している「ニセモノの日本語」を紹介・批判するといったものであろう。しかしながら実際の内容は、時に無理をしてまで日本語を讃え、更にそこから我田引水的な日本人論を展開するといったものである。特に話し言葉に特化した形跡も無い。
 個別の問題点も多い。以下はその一部の紹介である。
 7ページ、「八百屋のストアに大根をショッピングに行く」とは言わない事につき、そうしたカタカナ語は「もっと高級な店に行くときに使う。」と決め付けた上で、「カタカナの言葉を、高級な意味の方に使うというのは残念である。」との感想を漏らし、その原因は「日本人はどうも昔から日本のものより、外国のものの方が一段上だと思っている。また英語の方が日本語より高級で進んだ言葉だと思っている。それが影響しているのではないか。」と仮説を提示している。しかしながらそもそもカタカナ語を使用するか否かの判断は、対象の等級だけでなく、対象が和風か洋風かによっても左右されるのではなかろうか?例えば、いくら高級でも和風の料亭で「ディナー」はないだろう。ここで著者の分析が歪んでしまった原因は、情報の古さと八百屋への差別意識のせいであろう。
 8ページでは「例えば中学校の英語の時間で、先生がこれから教える外国の言葉は非常に立派な国の言葉だ、と生徒に教える。」とあるが、これも、大正2年生まれの自分が経験した教育が今でも脈々と受け継がれていると決め込んでいるが故の記述であると思われる。
 同ページ後半、日本語と違って英語の二人称では単複の区別がない事を指摘し、「日本語の方が進んでいる、と言ったらおかしいだろうか。」と反語じみた疑問を呈している。こうしたものの優劣まで「進んでいる」か「遅れている」かで表現するというのは実に「時代遅れ」だと思うが、これはこれで著者が意図しなかった形で言語の勉強になる。それはさて置き、時間的な話を持ち出すならば、むしろ昔の英語でこそ、二人称は単複の区別がなされていた。
 31ページ、住所を書く場合に大きい区画から先に書いていく日本語の特徴を讃えた上で、「郵便番号なんてものも作られたが、元来日本の住所の書き方には、そんなものはいらないのである。」と主張している。しかし郵便物の仕分けを完全に手作業でやる場合ですら数字による分類整理は便利であるし、また特に住所の部分的な書き間違いがあった場合には郵便番号が非常に参考になると思われる。
 35ページ、「つまりそのくらいかけ算、わり算というものは、日本人以外の民族、中国人は別だが、欧米人にとっては難しいものだということを、ぜひ頭の中に入れておいていただきたい。」とある。私は当初この文の意味が把握出来ず、何らかの文法上のミスでもあるのではないかとも思ったのだが、日・中・欧・米以外は著者の眼中に無かったというのが事の真相であろうと思い直した。著者の若かりし頃の世界地図を鑑みれば、ある程度酌量の余地がある世界観である。
 48ページ、日本の自然の美しさを讃える文脈で、唐突にもわざわざスペインを比較の対象として持ってきて、「「南国スペイン」なんて言葉を聞いて緑の大地かと思うと大間違い。飛行機から見るスペインの国土は、山は多いけれど大体がはげ山で、枯れた茶色である。木なんてほとんど生えていない。」と書いている。仮に「南国スペイン」という言い回しが日本中で流布していて、しかもそのせいで多くの人々がスペインは緑の大地だと誤解しているというのならば、それなりに意味のある行為かもしれない。しかし地中海性気候の特徴については、日本では義務教育でしっかり教えている。
 50ページ、「腰をかける」と表現される動作が、実際には腰ではなく尻が主役である事について、「日本人は尻なんていう言葉は、品が良くないと思って使わない。肉体的なものをあまり話題にしない。そういう傾向がある。」と語っている。ここで「尻」を使った日本語の慣用句を反証として紹介するのは揚げ足取りかもしれないが、「腰は肉体の部位ではないのか?」と聞くのは許されるであろう。
 61ページ、相撲の勝敗を巡って審判達が協議している時に力士が無言である事につき、「あの態度が日本人は好きなのである。」と語っている。続けて「アメリカから来た野球は違う。」として、選手が審判を突き飛ばす事例を紹介している。そして「自分の利益になることはあくまでも主張すべきだ。こういう気持ちが欧米人に強いのである。」と結論付けている。野球における審判への暴行問題はアメリカより日本の方が甚だしいという事は常識だと思っていたが、著者は知らなかったようだ。
 81ページ、中国の弁論の達人として、なんと張飛の名が挙げられている。これはおそらく、縦横家の「張儀」の間違いであろう。
 107ページ、「元来鬼は「羅生門」にいて、」と、まるで羅生門の鬼が鬼の起源であるかの様に語っている。これは鬼に関する最低限度の知識がある人にとっては噴飯ものの記述であろう。またこの文脈では、「羅生門」は「羅城門」と正しく表記すべきであった。
 136ページ、「『日本書紀』の中でスサノオノ命が朝鮮半島に渡るとき、船を造るのに適した木材ということで、「杉をもって浮宝とすべし」とまで述べている。」としている。まず日本書紀に登場する「素戔嗚」への敬称は、「命」ではなく「尊」と表記するのが正しい。おそらく著者は、『古事記』における表記と混同したのだと思われる。また日本書紀には、素戔嗚尊新羅から「埴土」製の船で出雲に来る話や、(金銀が有る「韓郷之嶋」と交流するのが目的と思われる)船が自分の子供の統治国には必要だとして四種類の木を作り、その内の杉と櫲樟とを船の材料に定める話等が書かれているが、著者が語る様な内容の話は読んだ事が無い。
 140ページ、「農業に関する言葉もやたらに難しいものがある。」として、「山梨県の農家の人」が会話中に発した「瘠悪林地」という単語をその例に挙げている。しかしこれはむしろ林業関連の用語である。この段落は、「純朴で畑のことしか知らない人の口からこんな言葉が出てくると驚いてしまう。」という差別的な捨て台詞でしめくくられている。相手を「畑のことしか知らない人」と決め付けていたから、瘠悪林地は農業関連の用語に違いないと思い込んでしまったのであろう。差別心が自らの首をも絞めてしまう典型例である。
 151ページでは中国を「牧畜が盛んで、革製品などをたくさん作った国」であるとし、「「かわ」という字に「皮」と「革」というようにわざわざ二つの漢字を作ったことからも、いかにそうしたことに関心が深いかが知られる。」と評している。しかしこれではまるで、日本語の「かわ」という字が「皮」・「革」という二つの漢字に先行して存在していたかの様に読めてしまう。これでよく「日本語学者」を名乗れたものである。
 161ページでも、「中国で「湯」はタンといって、スープのことを言う。「湯」のことは「開水」と言わなくてはいけない。」という非常に判りにくい文を書いている。先に登場する方の「湯」では「湯という漢字」という意味を表現するために鉤括弧を使用し、後に登場する方の「湯」では「日本語のお湯という概念」という意味を表現するために鉤括弧を使用したのであろう。極めて近い場所でしかも同じ文字を括っている二つの鉤括弧の使用目的がまるで違っているというのは、極めて劣悪と評価せざるをえない。
 171ページからの歴史上の人物を素材にした奇妙な姓名判断は、あまりにも愚かしいので、格別の慈悲によって敢えてここでは批判しない。
 180ページ、「『平家物語』を読むと、祗王とか仏御前などの白拍子と呼ばれた女性が、平清盛の前に出て、歌い踊って新年の喜びを表す場面が出てくる。」とある。確かに『平家物語』には平清盛白拍子を愛好した話が登場するが、現在普通に流通している『平家物語』では、そこで新年の喜びが表されているとは言い難い。あるいは研究者だけあって妙な異本でも持っていたのかもしれないが、ともかく一般向けの本で何の断り書きも無しにこんな記述を堂々とされては困る。
 210ページ、「皇太后さまが亡くなられたときは、「逝去」という言葉が使われた。これなども荘重語であるが、読者からは「なぜ天皇陛下崩御で、皇太后は逝去なのか」という質問が来たという。」とある。これは何代目の天皇の御世の話なのか?逝去という言葉を使ったのは誰なのか?逝去という言葉はどこで使われたのか?「読者」とは何の読者なのか?質問の宛て先は「逝去」の使い手だったのかそうではないのか?敬語にこだわりのある「読者」が本当に天皇には「陛下」という敬称を付けておきながら皇太后にはそれを付けなかったのか?これ等の疑問は、文脈からは到底判断出来ない仕組みになっている。216ページに「第三章は、初出『エルネオス』誌『NHK手話ニュース』ほかに加筆修正し掲載」とあるので、おそらくこれは「加筆修正」に失敗した傷跡であると思われる。
 本書のカバーには「やっぱり、日本語にはかなわない」と書かれている。ここで省略されている主語に一番相応しいのは著者であろう。
 冒頭で批判した題名についても、『金田一春彦先生、ホンモノの日本語を話していますか?』であったならば、何の異論も無い。