蜀漢正統論の形成において、劉禅の果たした役割

 『三国志』の時代、蜀漢は三国の中で最も早く滅んでしまった。
 しかし後代には、徐々に蜀漢こそ中国史の正統なる王朝であったという説が高まっていった。
 その説の興隆の原因としては、まず大局的に見て、北方を失った南朝南宋の知識人が自らの立場を蜀漢に擬えたという事が挙げられる。
 また影響力の強い個々の知識人に注目する際、例えば朱熹と韓侘胄との対立等の話が紹介される。禅譲を狙ったり果たしたりした権力者を嫌う知識人は、漢魏の禅譲を暴挙と見做したりその意義を矮小化したりする事に努めるのである。
 最近私はそうした傾向の一例としてT_S氏による習鑿歯の立場についての優れた見解(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090324/1237900422)を拝読した。興味の有る方には是非読んで頂きたい。
 そしてもう一つ、そもそもの大前提として踏まえておくべき蜀漢正統論形成の大功労者がいるというのが、私の立場である。
 それは劉禅である。
 劉禅が魏に降伏したのは、魏晋の禅譲の2年前である。
 もしも呉の様に晋の成立後もそれと並存していた時期が有ったならば、晋代に蜀漢正統論が出る余地はほとんど無くなってしまう。何しろそれは、司馬炎が少なくとも最初の数年間は偽帝であったと誹謗する様なものであるから。仮に蜀漢正統論者が何とかその不敬を避けた場合は、劉禅は殷の紂王の様に天命を失う程の暴虐を行った事になってしまい、これはこれで不名誉な形での正統論になってしまう。
 またもしも223〜226年頃に曹丕が鮮于輔を通じて降伏勧告をしてきた(『三国志』後主伝)際等に潔く降伏してしまっていれば、独立政権としての実績は減り、また魏の寿命も史実より延びたであろう。そして蜀漢正統論は、正統なる天子の不在が数十年も続くという、不自然で支持され難いものになっていたであろう。
 劉禅が程々の抵抗をした挙句絶妙の時期に降伏した事こそ、蜀漢正統論を生み出す下地となったのである。
 余談だが、こうした三国時代の歴史やそれに影響された後代の思想史までもが全て劉禅の計画通りだったというアイディアで小説を書いてみたい。諸葛亮司馬懿が死なない程度に暴れさせて魏の内部で司馬一族を台頭させる等、様々な謀略が描けそうである。

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)

正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫)