そろそろ、溜まった金を貧民救済に使う教団が出てきても良いじゃないか。

 最近私は、映画『蟹工船』で原作にも無かった信仰による問題解決という発想への批判が盛り込まれているのを観た(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090716/1247753294)。そしてまた、普段から拝読しているブログ「カフェオレみたいな日記」で信仰と慈善活動の関係性が語られているのを見た(参照→http://d.hatena.ne.jp/CanDy/20090719/1247986420)。
 こうした経験が切っ掛けになったのであろう、井上禅定著『東慶寺と駆込女』(有隣堂・1995)という本の事を思い出した。
 この本の149ページには、野坂参三が寺に来て「宗教は未開社会には必要なものですが、理想の社会が出来れば不必要なもの」と言ったという話が登場する。
 これについて著者は、「その通りかもしれません。」と書く。そして、昔の寺は教育や金融等も行っていたが、国家や社会がそれをしっかり行う時代になったのだから、宗教団体が無理にそれに対抗する必要は無いんだという方向に話を持っていくのである。
 この展開には大いに唸らされ、非常に強い印象が残った。以来私が宗教と社会との関係を考えようとする際には、常に原点としてこの本がある。
 曲がりなりにも一定の福祉制度を発達させたここ数十年間の日本で、役割を心の問題に特化した新興宗教が大量に生まれたのも、この観点で分析すれば得心がいく。
 そして近年の日本では、経済的自由主義が台頭し、政府の大きさは再び縮小への道を辿り始めた。これは単なる思想上の問題ではなく、世界的に金の動きを権力の側で捕捉しにくくなってきているため徴税も困難になってきているという理由もあるので、今後一度や二度の選挙で革新政党が躍進したとしても、流れを大幅に変えるのは困難であると思われる。
 加えて心の問題については、心理学も精神医学も日進月歩であるため、昔なら宗教家に相談に行っていたであろう問題で医師に縋るというケースも増えてきている。
 よってそろそろまた貧困の問題で宗教が活躍する意義が高まってきているのではないかというのが、私の考察である。
 信徒から集めた金をほとんど全額慈善事業に使う事を教義の前面に押し出す様な新興宗教団体が出てこないものか?

東慶寺と駆込女 (有隣新書51)

東慶寺と駆込女 (有隣新書51)