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確かに当時の旧弊たる思想を打ち破るのに貢献した画期的作品であったと思われる箇所も見られた。例えば、野上弥生子の『海神丸』が「喰う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない」罪悪が「喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる」罪悪より軽いという立場を自明の前提にしている事を批判した部分や、文明対非文明の二項対立を疑っている部分等には、現代に通じる精神を見出せる。
こうした点では良い意味で「古典」であり、参考にした事件の方が逆輸入的に「ひかりごけ事件」と呼ばれるまでになった事も頷ける。
だがやはり、第一幕の船長には方言を、第二幕の船長には標準語を、それぞれ喋らせ、それが野性対理智の反映であるとしている点には、かなりの古臭さが感じられる。
こうした点では悪い意味で「古典」である。
本日、映画版の『ひかりごけ』を観た。以下はその感想である。
驚いた事に、私の原作への一番の不満であった前述の方言対標準語という手法が撤廃されていた。原作の発表は西暦1954年であり、映画の公開は1992年である。38年の時の流れとその期間における思想の発展とを感じた。
しかし脚本には色々と杜撰な所があり、ミスを発見する度に興を醒まされた。
まず、小説家と校長の語らいが1991年になされたという設定とこの校長がシベリア抑留を経験しているという設定との間に事実上の矛盾がある。勿論「シベリア抑留は実は校長の冗談。」だの「このフィクション世界の羅臼町には私立の学校がある。」だの「この並行世界の1991年の制度では中学校の校長は70歳定年制」だの「彼はコウチョウという苗字の老人。」だのという説明も不可能ではないが、こういう事はしないに越した事はない。船長の分身を登場させたいのであれば、町長でも町内会長でも社長でも良いのだから。
また裁判の場面では、船長は原作同様に「被告」と呼ばれる事もあれば現実同様に「被告人」と呼ばれる事もあり、一貫性が無い。
古い作品の映画化等の際の原作のイデオロギーの扱いに関しては、尊重してそのまま再現するのも、主として同時代向けに変更するのも、それぞれ特有の味わい深さがある。一方脚本の杜撰さは余程の偶然を除けばマイナスでしかない。本作品の脚本の執筆はその点で優先事項を見誤っていたと言える。
ついでだが以下の写真も御覧頂きたい。小道具として使われたこのカレンダーは戦時中のものという設定の筈なのに、戦後風に字が左から右に向けて書かれている。ひょっとしたら戦前にもこういうカレンダーが在ったのかもしれないが、折角なのでこういう所でこそ時代臭を醸し出すべきだと思われる。
ただし、最終局面の見事さが上記の不満を尽く吹き飛ばしてしまった。
洞窟化した裁判所で裁判官・検事・弁護士・傍聴人の背後に緑の光の輪が登場し、船長が「私を良ーく見て下さい!」と叫ぶ。原作ではこの最高潮の場面で幕が下りている。ところが映画では、次に格子の向こうに船長がいる場面となる。一瞬、「余計な付け足しをしやがって!」という不快感に支配される。
次の瞬間、船長に見えた男は実は校長であり、これが冒頭の小説家と校長が洞窟のひかりごけを観にきた場面の続きである事に気付かされる。格子の向こうは牢獄ではなく世間である。だが世間の全ての人の背中に緑の光の輪が輝いているのなら、やはり格子の向こうは牢獄であり、光の輪を持たない五助・八蔵・西川の幻が残った洞窟側の視点こそ、罪無き者達の世界なのだろう。
私は幼稚園児の頃、牢獄の格子戸のどちら側が自由世界でどちら側が牢獄であるかは所詮思い込みに過ぎないという発想を、延々と検討していた。これは自分で覚えている限りでの最初の思索であり、おそらく私の思想・性格に今でも強い影響を与えていると思う。
予想だにしない作品で予想だにしない形式で、自分の原点を巧妙に表現したものを突きつけられた。そんな気分になった。
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