「無神教」・「確率教」・「不可知教」が在っても良いと思う。

 無神論者の多くは、自己の奉じる教義に自信が有りすぎるせいか、それを「宗教」とは見做さない傾向が強い。また異教に寛容な有神論者の多くも、無神論だけは宗教ではないと見做す傾向がある。
 果たして無神論はそんなにも特殊な立場なのだろうか?
 例えば、理神論と無神論の教義の違いは、本当にキリスト教と日本神道の教義の違い以上のものだろうか?
 また「神はいる」事を万人に納得させる証明が無いのと同じく、「神はいない」事についても証明は不可能である。最終的には賭けの要素が入ってくる。
 裁判等では立証責任をどちらかに課さなければならないが、互いに自己の教義を奉じて住み分けが出来る宗教界では、一方を滅ぼす必要は無いだろう。
 無神論者の中の謙虚な人達が、「自分達は、神はいないという証明不能の命題を、自己または尊敬する先達の直観力への信仰に基づき、信じる。」と言って宗教団体を作り、布教と同時に異教との対話を進めていけば、面白いと思う。
 次に存在して欲しいのは、「確率教」とでも言うべき諸派である。
 これは「A教の教義が正しい可能性がX%(またはX%程度。以下同じ。)、B教の教義が正しい可能性がY%、C教の教義が正しい可能性がZ%、未だ真理は発見されていない可能性が(100−X−Y−Z)%」といった「教義」を持つ諸派である。
 この種の教義を信じる人は、今まで「信心の足りない人」と見做されるという差別を受けてきた。だがこれとて一つの信仰として尊重すべきであろうし、信仰者の側でも尊重されるためにはしっかりした教学を作ってから異教との対話を進めていく必要があるだろう。
 人口より宗教人口の方が多い日本でこうしたものが今まで存在しなかった事の方が不思議である。
 そして最後に「不可知教」が登場して欲しい。
 「神については、少なくとも現在は、存在する可能性の大体の確率すら人間には決して判らない。」という教義を信じる集団である。
 この教義は、今まで「無宗教」に分類されていた。
 しかし「1999年7月に世界が滅亡するに決まっている。」と信じていた人と「最後の審判が何時行われるかは人間には決して判らない。」と信じていた人との間での対話の可能性は、後者と不可知教徒との間での対話の可能性と比べて、果たして大きなものだったと言えるだろうか?