長年東アジアにおいては、黄河や長江の流域を制した政権の長が全世界を統治しているという擬制にこだわり、周辺勢力も力の無い時期にはそれに付き合ってきた。
北方の諸民族が隙あらばその地位の獲得に挑戦したのに対し、ベトナムや日本等の地域では密かに中華帝国の真似をするという作業が行われる事が多かった。
日本の朝廷は、高句麗の勢いが盛んな頃、隋朝に対して対等を強調する国書を送った。だが唐と新羅の関係が良好な時代には、自国内や新羅・渤海に対してこそ帝国を演じつつも、遣唐使には一王国からの使者として振舞わせていた。
しかし西暦778年、遣唐使は唐王朝からの使者を伴って帰国せざるを得なくなったらしい。そして翌年行われたこの使者との対面の儀において、光仁天皇は玉座から降りたらしいのである。詳しくは、坂上康俊著『律令国家の転換と「日本」』(講談社・2001)の第三章やそこに引かれた諸文献を読んで頂きたい。
一国の元首が他国の要人を慣例以上に尊重した時、国内ではそれによってもたらされる権益と失われた国威との軽重をめぐり、深い議論がなされるのが普通である。その種の議論が盛り上がり過ぎるのも問題だが、検討を深める事は原則としてやはり大切である。
最近ではオバマ大統領の今上天皇に対する頭の下げ方が米国内で物議を醸した。
昭和天皇とマッカーサーの会見についても、屈辱的だと悲憤慷慨する向きもあれば現実的な英断だと評価する向きもあるが、ともかくその事実は広く知られている。
この光仁朝の事件についても、もう少し世に知られて良いと、私は思う。
なお前掲の坂上書の第三章には、日本への対応に苦労させられた新羅という、類似の構造の話も出てくる。
半島を統一して唐との関係も修復した後の新羅が日本に原則として朝貢しなかった事は、これまた広く知られている。だが国内情勢が不穏な時期には、それなりに柔軟な対応を示したらしい。そして日本で律令制が崩れて軍事力が激減するまで、何とか侵攻される事態を避けきったのである。
事大・自大の時期・程度を見誤って滅んだ大日本帝国や大韓帝国に比べると、古代の日本・新羅は遥かに優れた国際情勢を見る目を持っていたのかもしれない・・・。
- 作者: 坂上康俊
- 出版社/メーカー: 講談社
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