『「マルクスは生きている」公開連続セミナー講演録』とその用途について

 不破哲三氏の『「マルクスは生きている」公開連続セミナー講演録』(2010)というパンフレットが、去年から一部の大学で入学試験の前後に民青同盟によって大々的に配られている(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110224/1298559485)。巻末の「民青メンバー大募集!」と書かれた欄を見るに、主に新規有力メンバーの獲得を目指しての行動なのであろう。
 しかし私はパンフレットを読んで、これはその用途には適さない物品なのではないかという感想を持った。
 民青同盟が一層発展出来るように早速この感想を送ろうと思ったのだが、パンフレットの最終ページには「お名前、おところ、年齢、学校名・ご職業、連絡先、Mailなどを明記のうえ、ご意見・ご感想を送って下さい。」とあった。送り先もメールアドレスに限定されていた。そこで個人情報保護のために感想の直接の送信は諦め、ブログで意見を発表する事にした。
 これで、パンフレットを配る側の人の目に私の感想が触れる可能性は低下してしまった事になるが、配られる側の人の目に触れる可能性は高まったので、一得一失である。
 無知蒙昧にして頑迷固陋なる私の感想が、英明なる同盟員や受験生の方々にとっての他山の石にでもなれれば、幸いである。
 
 まず思ったのは、このパンフレットを読んだ後にマルクスの著作を実際に読んでみようとする人は少ないだろうという事である。というのも、折角面白そうな名文句が引用されていても、出典が記されていない事が多いのである。講演の際に限られた時間の中で一々出典を述べるのは現実的ではないが、講演録を作成する際に注釈の形で出典を明記していれば、それを機に原典へと手を伸ばす読者も多かったのではないかと思う。
 次に思ったのは、仮にこのパンフレットを読んでマルクスに好感を持った人がいたとしても、それを民青同盟や日本共産党への支持にまで持っていくのは難しいだろうなという事である。
 14ページでは、現代の多くの人間が「イエス」と答えるであろう三つの質問が並べられ、これにイエスと答えると、「それならあなたは、唯物論か観念論かという問題では、完全に"マルクス派"です(笑い)。」とある。この記述は、読者のマルクスへの共感を高めるとともに、「なぁんだ、マルクスって共産党の専売特許ではないのか。」という感想をも持たせてしまう、諸刃の剣である。よってこの後、数ある唯物論の中でも現在の日本共産党の理論こそが最も良いという事を証明しておくべきだったのである。
 その証明の機会は、実は直後にあったのである。17・18ページではプレートテクトニクスの話題が語られている。このプレートテクトニクス理論を弁証法唯物論を根拠に排撃した集団がいた事と、日本共産党が1970年代からはそういった連中と一線を画した事は、泊次郎著『プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会・2008)に詳しい。よってプレートテクトニクスの話題こそ、「マルクスは良い。その後継者の中でも、日本共産党は特に良い。」と話を持っていく絶好の機会であったと思われる。しかし講演では、単に弁証法的自然観の正しさを証明する事例の一つとして扱われてしまっている。
 また、国内のみならず国外の粗悪な類似物との違いの強調も、若年層を取り込むのには重要であろう。特に現代日本で嫌われている北朝鮮との違いを強調しておくのは、必須の要件であると思われる。しかし50ページで「社会主義をめざす国ぐに」という言葉が登場した際、それが「中国、ベトナムキューバの三カ国」であると説明したに止まり、北朝鮮を除外した理由は述べられていなかった。
 そして更に、このパンフレットを読んで日本共産党へ好感を持った人がいたとしても、多くは直ぐに幻滅するだろうと思った。
 このパンフレットでは、ルイセンコ論争で疑似科学を熱烈に支援した歴史や、武装闘争路線の歴史等は一切紹介せずに、「私たちは、ソ連共産党や中国の毛沢東派からの不当な干渉にたいして、断固としてたたかってきた党、相手がどんな大国の党であれ、干渉主義反対の立場をつらぬいてきた政党です。」(83ページ)等と偉そうな事ばかりを書いている。
 しかし今時インターネットを使えば、過去の共産党の失敗を幾らでも発見出来る。高度情報化社会で歴史教科書を編む際に、麗しい歴史だけを、あるいは醜い歴史だけを、一生懸命書いても、所詮無駄な努力に終わるのと、同じ事である。過去の先人や同輩の失敗をしっかり紹介した上で現在の路線を称揚するという手法の方が、新規有力メンバーの獲得には相応しいだろう。
 念のため確認しておくが、以上の記述は「だからこの講演(録)は駄目だ!」と主張するためのものではない。初めから講演者と共通認識の多い人が信念を強固にするのには役立つであろうし、題名通りのマルクスの称揚を目的とした講演としてならば一定のレベルにあるとは思う。ここまでの記述を踏まえて私が言いたいのは、前述した通り、「だからこの講演録は、民青同盟の新規有力メンバーを確保するために受験生に配布するという用途には、不向きである。」という事である。 
 
 ついでなので、この主張とは関係の薄い、個別の問題点も指摘しておく。
 5ページ。スタンダールの『赤と黒』を持っていた学生が、共産主義無政府主義の書籍を所持していると警察に思い込まれて「留置場にたたきこまれた。」という笑い話が登場する。そして「ところが、あの小説では、「赤」は軍服のこと、「黒」は僧服、坊さんの服のことでした。」とあった。このように講演者はまるで実際に『赤と黒』を読んだかのような物言いをしているが、実際には題名が何を象徴しているかを明示した記述は小説の中には存在しない。軍服と僧服であるという見解は有力説の一つに過ぎない。新潮文庫の『赤と黒(下)』の巻末の解説では他の様々な説も紹介されている。その中にはソビエトの学者が提唱した新奇な説もある。
 敢えて好意的に解釈するならば、これはフランス文学に詳しい学生を予め意図的に幻滅させておく事で、潜在的トロツキストが入党するという事態を防ごうとしたのかもしれない。
 同ページでは、自分の若い頃と比べて東大の歴史学と経済学においてマルクス主義が退潮している事が書かれている。そしてこれが、次のページでの「ここには、体制側の人たちが、若い人たちマルクスなど読んでもらいたくない、と考えている、そのことが大きく働いている、と思います。」という記述へと結びついている。ではマルクス主義歴史学マルクス主義経済学が主流だった時代には、「体制側の人たち」の「若い人たちマルクスなど読んでもらいたくない」という気持ちは、今より遥かに弱かったのであろうか?そしてその差異の大きさは、大学における学派の大きさをも決定付ける程なのだろうか?
 一方9ページでは、自然科学において観念論が退潮していったのは、科学の発達が原因という事になっている。文系の学者は随分馬鹿にされたものである。
 32ページからは「資本主義の三大災厄」が紹介されている。この内、第三の災厄である「温暖化の危機」は、35ページから語られる。そして36ページでは、三十五億年前から四億年前までの三十一億年間の大気の改造の歴史を語り、「現在の地球大気は、生命体と地球が三十一億年の年月をかけてつくりあげた「生命維持装置」にほかなりません。」としている。そして37ページでは、大気中の二酸化炭素の濃度が「〇・〇四%の水準に急速に近づきだした」事をもって、「資本主義は、生命と地球が三十億年以上かけてつくりあげた「生命維持装置」を、そこそこ数百年の経済活動で危機におとしいれたのです。」としているのである。実際には、四億年前から今日までの期間においては、大気中の二酸化炭素濃度が0.04%どころか0.1%を遥かに越えていた時期も、かなり長くある。

プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

赤と黒(下) (新潮文庫)

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