脳科学と科学技術コミュニケーション――シンポジウム荒しとの再度の遭遇

 昨日は、脳科学と科学技術コミュニケーション(http://science-interpreter.c.u-tokyo.ac.jp/generalpublic/2011/02/5.html)に行きました。一晩経ったせいでかなり忘れているのですが、更に忘れるという事態を避けるため、覚えている事をここに書いておきます。
 まずは坂上雅道氏の「脳科学の現在と未来」。脳科学の発達史を手堅く紹介するというのが、主な内容でした。最初の講演者がこういった基礎的な話をして、会場全体に共有される基礎知識の水準を高めておくというのは、非常に良いやり方だと思いました。
 では初めから基礎的な知識を持っていた人は退屈していたかというと、さにあらず。坂上氏は要所要所で笑いをしっかりとっていました。
 次は坂井克之氏の「脳から心が読めるか?」。脳が何を考えているかについての実験の紹介と、その限界について語ってくれました。
 なお、私は次の講演者である信原幸弘氏のファンなので、氏に倣って巷の疑似脳科学本をかなり敵視していました。しかしアカデミズムの中で行われている脳科学と疑似脳科学との間の境界線はかなり曖昧であるという見解を、この坂井氏の講演では教わりました。非常に視野が広がりました。
 そしてお待ちかね、信原幸弘氏。脳神経科学の成果を日常知に適切に変換する専門家の養成の努力の過程を語ってくれました。一般市民の脳神経科リテラシーの向上と、脳神経科学者の社会リテラシーの向上とを目指して編まれた教科書『脳神経科リテラシー』(勁草書房・2010)の紹介もしてくれました。
 ところで、この講演の題名だけ、何故か配布パンフでは細字でした。

 休憩を挟んで、長神風二氏の「脳科学とコミュニケーションの現場」。脳科学の面白さを一般市民に伝える仕事をしている人間としての、現場の紹介でした。興味深かったのは、疑似脳科学の氾濫については、現場ではかなりポジティブだという話でした。教育とかジェンダーとかがテーマだと、疑似学問のコチコチの信者や個人的体験の至上主義者と永遠に解り合えない事態が多々あるのに対し、脳科学ではそういう事は起きないという話でした。そして俗説は俗説で、興味を持ってもらう入り口になっているみたいです。
 これまた、疑似脳科学を憂いている私には、かなり新しく面白い発想でした。
 最後は朝日新聞の高橋真理子氏。新聞がどういう時に何を記事にするかについて語っていました。
 その基準は科学者の基準とは違っているので、時として疑似科学に好意的であったりします。この現状を後の総合討議で長神氏が擁護していたのが印象的でした。特定の価値観に安住するな、というのが長神氏の立場でした。読者のいる新聞に何を載せるかという判断と、研究者による判断は別物でなければならないのだと。
 総合討議では、「科学部の記者」なんてのを食わせていけるのは、数百万読者を抱える日本の新聞だけであり、また現状で脳科学を市民に伝えるメディアとして一番有効なものは新聞しかないという話も出ていました。
 確かに、科学者が近視眼的に新聞の編集に介入した結果、そういう「正確な」新聞を面白いと思わなくなった読者が新聞から離れていけば、長期的に観て却って疑似科学を隆盛させる事になりかねません。これは非常に勉強になりました。
 勿論、ブログの書き手達が行っている新聞に掲載された疑似科学への批判が悪いとは、私は思いません。こうした地道な活動によって日本人がどんどん疑似科学を嫌いになれば、新聞の編集方針は科学者の視線へと自然に接近していくでしょうから。
 なお、日本では権威のある『Nature』や『Science』についても、売れ行き重視の編集方針のせいで科学者の立場と乖離している問題があるそうです。そして文科省からの研究費の配分が、こうした雑誌に記事が掲載されたか否かに大きく左右される事が問題視されていました。
 そして最後に紹介しておきたいのが、享保十三年渡来象のオープンセッション(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110210/1297337584)でも見かけた暴れ者の老人です。このシンポジウムにも出没し、講演と無関係な質問を大量にして暴れていました。流石に後半では、賢明な司会者が彼にマイクが渡るのを上手に阻止していました。
 自由主義の対価としてのカルトの脅威と同じく、開かれたシンポジウムの対価だ、と言ってしまえばそれまでですが、何とも不愉快なものです。

脳神経科学リテラシー

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