津波は天罰かもしれない。だが天罰ではないかもしれない。

 石原都知事津波を「天罰」と呼んだ件に関して、各界で様々な議論が起きた。
 
 その中でも一番奇妙だったのが、「あれはX教の教義に照らせば正しいのだ。」という論法で都知事を擁護する論者である。
 私に言わせれば、だからこそ失言なのである。
 「天罰」という言葉は、「天災」とは違い、宗教的側面をかなり残している。東京都民の中には、「あの津波は正確には天罰ではなく神罰だ。」とする世界観の持ち主もいるだろうし、「いや仏罰だ。」と思う人もいれば「悪魔の所業だ。」と思う人もいるだろう。そして自己の信じる教義に従う限り「あの津波は意思を持った主体が起こしたものではない。」という結論に至る人も多数いると思われる。
 そして政教分離は現行憲法の理念である。よって日本の政治家が「某事件は天罰である。」という宗教的な見解を公の場で述べるべきではない。
 だから今回の都知事の天罰論は、シーシェパードだの新興宗教だのが己の世界観に基いて似た様な見解を表明する事とは、まるで違う事件なのである。
 「津波は天罰だ。」という一点では都知事に共鳴した人も、これが本当に擁護すべき発言であるかを、もう一度考え直して欲しい。
 
 次に、逆に「あれは宗教的意味のある発言ではなく、過去から現在までの日本人の意識や日本政治の有り方が必然的に被害を招いたという意味を伝えようとしたものだと思われる。」という擁護論も批判しておきたい。
 もしもその推測が当たっていたならば、都知事は単語の選び方が下手だった事になる。文学の世界ならばこの程度の隠喩は当然かもしれないが、政治の世界では失点である。
 「これは事実上の人災だ!」と言えば、ほぼ同じ意味の警鐘を誤解されずに伝える事が出来たであろう。
 「津波を機に日本人の意識を変えたい。」という一点では都知事に共鳴した人も、彼が本当に共闘するに値する人物であるのかを、もう一度考え直して欲しい。