多根清史著『教養としてのゲーム史』(筑摩書房・2011)を読んだのだが・・・

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

 本書は、1972年の『ポン』から急速に進化していったビデオゲームの歴史を綴っている。ただし、「落ちゲー」と「対戦格闘ゲーム」については進化史の中でガラパゴス的であると著者に判断されたようで、扱わない事が「はじめに」で明言されている。それでも考察の対象となった部門はかなり幅広く、私は数多くの未知の情報・知見を本書を通じて学ぶ事が出来た。
 しかしながら既知の部門においては、逆に数多くの不適切な記述を発見してしまった。やはり誤情報の流布は可能な限り食い止めたいので、万人の目の触れる場所でそれらを指摘しておきたいと思い、微力を尽くす事にした。
 全体的な欠点としては、情報の出所が過度に不明確な事が挙げられる。単に出典を省略しているのではない。88ページでは「あるゲーム雑誌」とあり152ページでは「あるマンガ」とあるように、特にぼかす必要が無さそうな出典まで敢えてぼかしているのである。手元に既に資料が無いのに曖昧な記憶を頼りに書いている事を隠そうとしているのか、それともそれを所持している事が余程恥ずかしい資料だからなのかは知らないが、褒められた態度ではない。
 以下、個別の問題点も発表しておく。
 48ページ最終行から、『ドンキーコング』に関する記述が始まっている。そして50ページでは特に但し書きも無いまま、ドンキーコングを四面構成の作品として紹介している。ドンキーコングはアーケード版が四面構成、ファミコン版が三面構成であるので、ここでは『ドンキーコング』といえば当然アーケード版を指すものという態度が採られている事になる。53ページでもその態度は維持されている。そして55ページからは同ゲームの内容紹介が始まる。ここでもファミコン版に代表される「家庭用の『ドンキーコング』」は別物として扱われている。ところがその後何の断り書きも無いまま、57ページでは「ステージ2」としてアーケード版のステージ3、即ちファミコン版のステージ2が紹介され始めるのである。この記述の一貫性の無さは非常に問題だ。
 61ページ、ファミコン版の『マリオブラザーズ』について、「敵を倒すアクションが「床の下からパンチで突き上げる→蹴って下に落とす」と2ステップに分解されているのだ。」と書かれている。カメ・カニ・ハエについては確かにその通りであるが、フリーズ・ファイアボール・グリーンボールは実際には一撃で倒せる。
 またこの2ステップ方式についても、一般論的に紹介されるだけで、マリオブラザーズのそれが『平安京エイリアン』の延長線上のものとしてしか紹介していないのは残念であった。マリオブラザーズの2ステップ方式の妙味は、弱体化した敵が自力で復活するとより強大化する点にこそある。そこで、無闇な攻撃を控えたり、場合によっては強大化を防ぐために敢えて復活の手助けをしてやるといった選択肢も生まれてくるのである。
 68ページでは同ゲームについて「パワー床を使える回数は一面当たり三回まで」としている。しかし実際には、パワー床の使用回数が復活するのは五面毎にあるボーナスステージのみである。
 69ページ、「囚人のジレンマ」の説明が「二人の共犯者が囚人となり、連絡が自由に取り合えない。二人とも黙秘すれば懲役二年、自分だけしゃべれば懲役一年。二人とも自白すれば、懲役一〇年に跳ね上がる。」となっている。しかし「しゃべれば」と書くだけでは、その囚人が全貌を正直に自白したのか、それとも自発的に自分だけが泥を被ったのか、はたまた相手にだけ罪を擦り付けたのか、あるいはまた雑談をしたのかが不明である。しかも自分だけ自白した際の共犯者の懲役年数が書かれていないので、これではそもそも囚人のジレンマの状態が成り立っているとも限らない。
 70ページには、「0か1か。人は勝ち負けのはっきりしたゼロサムゲームを好む。野球やサッカー、チェスや将棋など、それ自体にはモノを生み出す生産性などない。それでも、国家や企業が高いコストを支払ってプロ選手を養うほどには。」という、日本語の散文の体を成していない段落がある。プロの野球にもサッカーにもチェスにも引き分けはあるし、プロの将棋にも千日手があるので、どれも二進法の一桁だけで全ての試合結果を表現し切れるとは到底思えない。とはいえ、そもそもこの段落の内容自体が曖昧模糊としているので、あるいはこの私の指摘は著者にとってはピントが外れたものかもしれない。
 96ページでは『スーパーマリオブラザーズ』について、「敵を踏みつけて倒すアクションも、『マリオブラザーズ』での「突き上げる」を天地逆にしたものだ。亀の姿をした敵「ノコノコ」の場合は、踏む→甲羅になった状態で蹴って倒すということで、前作の二段アクションを継承していることが分かりやすい。」とある。だがノコノコは甲羅にして蹴っても、それで完全に倒したとは言えない。その後、壁に当たって跳ね返ってきて、マリオを倒してしまう事すらあるのだ。
 また97ページでは「かといって、後者のシステムを旧作に持ってくれば面白くなるどころか、狭い空間で敵にぶつかりやすく、上から踏もうにも天井が抑えつける圧迫感を強調することになるだろう。」と、まるで『マリオブラザーズ』には「踏む」という行動が無かったかの様な前提で話を進めている。確かに敵キャラクターを踏んで倒す事は出来なかったが、マリオとルイージが対戦をする際には、「踏む」という動作は戦略の幅を広げる重要な選択肢であった。踏まれた側は一時的に体が平べったくなって動作が不能になる一方、踏んだ側も自動的に大ジャンプをしてしまうのである。この駆け引きの面白さをそもそも知らなかったり、そこに圧迫感しか感じられなかったりするのは、不幸である。
 135ページでは『ドラゴンクエスト』の物語を「竜王を倒し、ローラ姫を救う」と要約しているが、これは「ローラ姫を救い、竜王を倒す」か「竜王を倒し、アレフガルドを救う」の間違いであろう。
 同ページ、「こうして初代『ドラクエ』以降、ゲームは情報を出し惜しむ「だんまり」をやめて「おしゃべり」になった。プレイヤーは「お使い」をこなして一本道をたどることを楽しみ、堀井氏がゲームという形式を通じて語るストーリーに耳を傾けたのである。」とある。あの難しいファミコン版『ドラゴンクエストⅡ』を自力でクリアしてなおかつこの主張に賛同出来る者がいるとすれば、それは余程の猛者であろう。またドラゴンクエスト以後も、他社からは『ゲゲゲの鬼太郎2』や『新・里見八犬伝』や『星をみるひと』等の「おしゃべり」でないロールプレイングゲームが大量に発売されている。
 138ページの最初の段落は、「『ドラクエ』的な親切設計のだめ押しが「生き返る」ということだ。もし志半ばで倒れても、主人公は王様や教会の牧師の前まで連れ戻されて「おお ○○よ しんでしまうとはなにごとだ!」と叱られるだけのこと。所持金額を半分にされるペナルティはあるが、経験値もレベルもそのままで、旅は何ごともなかったように続く。」というものである。死んだ時に王様以外の者の前に行く事もあるというこの内容は、初代の『ドラゴンクエスト』ではなくその続編群を連想させる。しかし一方で続編群ならば、全滅後の復活時には主人公以外は原則として死んだままなので、旅が何ごともなかったかのように続くとは限らない。
 159ページでは『三國志』に関連して、「劉備曹操といった領主」という表現がある。三国志の群雄の立場は「領主」的なものとは限らないと思うのだが、これはまあ仮に何とか我慢出来るとしておく。より驚くべきなのは、直後の161ページで「劉備玄徳や曹操といった領主たち」という表現が登場する事である。何故突如として劉備だけが字を添付されたのだろうか?
 162ページでは、『蒼き狼と白き牝鹿』を『信長の野望』や『三國志』と並ぶ光栄(コーエー)の「歴史三部作」の一つと見做すという、やや古風な立場が採られている。それ自体はいいとして、著者は大した知識のないままに歴史三部作という言葉に引き摺られてしまったようで、164ページでは、『太閤立志伝』シリーズを、「主流である歴史三部作以外では異例の長期シリーズを重ねている」とあくまで三部作に次ぐ存在として紹介している。だが実際には蒼き狼と白き牝鹿シリーズは四作品しか作られなかったのに対し、太閤立志伝シリーズは五作品作られている。更に『大航海時代』シリーズも息が長く、オンラインゲームにまでなる等の発展を遂げたので、太閤立志伝シリーズが「異例」呼ばわりされている事についても違和感がある。
 そして本当に『蒼き狼と白き牝鹿』を重視するならば、シリーズ第二作の主人公のステータスを鍛えつつ異性との交流を頑張るというシステムを、182ページから解説が始まる『ときめきメモリアル』の特徴の先駆として、高く評価すべきであったと思われる。
 192ページでは、「『ときメモ』の完全攻略を目指すことは、生半可な覚悟ではできない。一周クリアに九時間かかるとして、一〇人以上のヒロインから「告白」されるにはトータルでゆうに一〇〇時間近くかかる。筆者が『ドラゴンクエストⅨ』をクリアしたのが二〇時間前後だったから、実に五倍もの長さだ。」という不思議な段落がある。ときめきメモリアルが長い時間を取られる作品であると印象付けたいようだが、冷静に取り敢えずのクリアまでの時間を比較すると、ドラゴンクエストⅨの方が二倍以上時間がかかっている。「完全攻略」とやらまでの時間と比較するならば、ドラゴンクエストⅨについてもアイテムなりモンスターなり称号なりのコンプリートのための時間と対照させるべきである。
 200ページには「単に時間の概念というだけなら『ドラゴンクエストⅢ』が有名だろう。昼は美しい王女様が、夜には怪物の正体を暴露しているといったぐあいだ。」とある。これはアッサラームにいる猫に化けそこなったベビーサタンを勘違いしたものと思われる。