「サイコパス 逃げ方」で検索してきてくれた人のための一章 決断までの心の持ち方

 正確な統計を採っている訳ではないが、弊ブログに「サイコパス 逃げ方」という検索で来てくれる人は、かなりの割合に上る。サイコパスから逃げた体験談は二年前に本記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110527/1306508354)を書き、その後は後日談等を何度か書いただけだというのにである。こんな不人気のブログからも少しでも情報を摂取したいという人が日本中に居るという事実の前に、私ももう少し多くの他山の石を公に提供すべきだと感じるに至った。
 と言っても、逃げ方のマニュアルの様なものは書かない。サイコパスとの具体的関係性は一つ一つ違うので、下手に定石を信じると却って命を失う危険もあるからだ。
 私が本日提供するのは、そもそも「逃げる」という決断を阻む障害への立ち向かい方である。これならば、知って損の無い抽象的な理論を伝えられると思う。それどころか、カルトや村社会等からの逃亡にも応用出来る部分が多いのではないかとすら思う。
障害その1・2 「心を狭くしたくない!」「人脈を狭めたくない!」
 人間関係を遮断するというのは、内面においては、心を狭くする事のように思える。外面においても、そのサイコパスと繋がっている普通の人との関係ごと遮断せざるを得ないので、人脈を狭める事になると思いがちである。
 だが「サイコパス」という概念の存在を受け入れる事で、却って心は広くなり、長期的には人脈も広がり易くなるのである。
 私がこの事を知ったのは、多くの犠牲を覚悟して実際に全てのサイコパスと縁を切ってからの事であった。「多くの犠牲」なんか無かった事に驚くとともに、誰か経験者がこれを教えてくれれば良かったのにと酷く悔やんだものである。
 それまで漠然と毛嫌いしながらも知人でいた「悪人達」を、逃げなければ下手をすれば命にも関わる「サイコパス」と「ただの悪人」とに分けて考え始めると、大多数の「ただの悪人」と大人の付き合いが出来るようになるのである。小さな不利益をもたらす連中については、「自己の不利益を最小化するためにやや疎遠な知人という扱いで飼い殺しにしている」と思えば、ほとんど腹も立たなくなる。
 そして今までサイコパスに奪われていた時間・金銭・忍耐力を新しい知人達に注ぎ込む事で、人脈は一気に回復する。新しい人脈の中には、「巨悪のBさんの知り合いのgurenekoさん」というイメージが消えたせいで寄ってきてくれた人もいたかもしれない。
障害その3・4 「心が狭いと思われたくない!」「ついでにあの被害者も救いたい!」
 人間の認識は極端から極端へと何度も往復しながら、徐々に中庸という正解に近付いていく事が多い。そのため、認識が1ランク下の人々は1ランク上の相手を自分の更に1ランク下だと誤解し易い。
 「社会で生きるには悪人とも付き合っていかなければならない。」という段階に到達したばかりの人は、1ランク上の「サイコパスだけは別」という認識にまで到達した人を、単なる高踏派だと誤解し易いものである。
 「Cさんの誤解を解いてから去りたい、そして出来れば純朴なCさんも救いたい。」という思いが、私の決断を鈍らせた事もあった。
 だがこれは数ある誤解の中でも自然に解け易い類型の誤解である。こちらが理を尽くして説得しなくても、Cさんは自力で次のステップに行けるかもしれないのである。
 こう説明されても後ろ髪を引かれる思いは零にはならないだろうが、一般的な「誤解」を受けたまま去ったり、他人を地獄に蹴落として自分だけ救われたりするよりかは、余程マシな状況だと気付けば、障害はやや弱まってくれる。
障害その5 「ひょっとしたら厳密にはサイコパスではないのかもしれない!」
 認識が往復的に発展するならば、逆に「サイコパスだけは例外的に逃げろ!」という真理も更に次のステップによって乗り越えられるのではないか、と思われた方も多いだろう。
 実際私も、かつて確実にサイコパスであると見做して縁を切った「Aさん」について、今では老人性認知症の初期症状に過ぎなかったという可能性を感じている。
 こういう話を聞いたり思い付いたりすれば、決断力が鈍ると思われる。
 他人事の研究者としての立場にいるのならば、そうした慎重さは美徳である。
 だが実際の被害者としては、サイコパスの可能性が高いボーダーゾーン上の人物から逃げたとしても、取り立てて大きな損は無いだろう。保険をかけたと思えば良い。命や全財産を失ってから決断したのでは遅いのである。
障害その6 「広大無辺の慈悲によってサイコパスすら救いたい!」
 これは身の程を弁えない利他行である。世の中には慈悲深い人が大勢いるのであるから、サイコパスが救われる存在であるならば既に大金と高度な能力とを持った人物・財団による救済例が続々と報告されている筈である。
 それに、他人を救いたいのならば、より低予算で多くの善人を救える。アフリカの子供達を見殺しにしつつサイコパスに貢物を贈るというのは、一種の不正義である。