国境を越えてナショナリズムを刺激し合い、狂信的ナショナリズムを駆逐しよう。五十歩百歩も継続すれば力となる。

 最初に、私が最近目にした言論で一番馬鹿馬鹿しかったものを意訳して紹介しよう。
「日本の某新聞が隣国のナショナリズムを批判していた。確かにナショナリズムは悪だ。だが「人の振り見て我が振り直せ」の諺通り、先ずは我々のナショナリズムを批判するべきだ。」
 これを目にした時、私は「「我々」って誰だ!」と叫んだものである。隣国と異なる「我々」が居て、「我々」を優先すべきという考え方こそが、ナショナリズムではないか。
 本日の記事は、こういった主張への対抗を目指して書かれたものである。
 本旨に入る前に私のナショナリズムへの立場を表明しておくと、「大半の人がそれを多少は持っていて当然。しかし一定水準を越えて強まると危険なので、それを防ぐ対策が必要。」となる。
 
 まずA国とB国の民衆が互いに相手を憎み合っていたとしよう。そしてA国で反B国を掲げる過激なデモが起きたとしよう。
 この時、B国の要人が「A国の連中程過激にならないのが、我々の真の誇りだ!」と叫んだとする。
 この発言は確かにナショナリズム塗れである。しかし少なくとも建前としては「一定水準を越えたナショナリズムは悪であるというのが普遍的価値だ。」という主張が混じっており、以後この発言を根拠にA国を嘲るB国民は、この主張に拘束されるのである。
 「五十歩百歩」の故事に喩えるならば、百歩逃げた兵士を馬鹿にした五十歩逃げた兵士は確かに卑怯者だが、以後の戦闘では最低限の誇りがある限りはせいぜい五十歩で踏み留まる兵士として活躍してくれるのである。
 そしてこの発言にA国民が対抗意識を燃やしたならば、一層素晴らしい。彼等が「B国民より冷静になってB国民を笑い返すぞ!」と決意すれば、世界は更に平和へと近づく。
 かつて百歩逃げた兵士が、五十歩逃げた兵士に「ドッチモドッチだ。」と下手な弁解をせずに、二十五歩で留まる勇気を持つ努力をすれば、彼等の所属する軍隊は一層強くなる。
 こうして果てしない「冷静」競争が続けば、両国のナショナリズムは自然と低い水準へと近づいていくだろう。
 よって、「強過ぎるナショナリズムは危険だ」と考える同志達よ、世界各国のナショナリスト達をして「貴国のナショナリズムは過剰だ!」と叫び合わせ続けようではないか。
 なお、以前私は思想における建前が「肉付きの面」となる場合もある事を説いた(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130706/1373041259)。今回の主張も、それの延長線上にある。

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)