『牙狼<GARO>-GOLD STORM-翔 劇場版』

 『牙狼GARO>〜闇を照らす者〜』は、黄金の輝きを失った最弱の牙狼を描いた作品であった。「最弱」という設定が様々な所で生きていて、かなり見応えがあった。
 だからこそ、その続編が作られると聞いた時には、かなり心配であった。シリーズ終盤で鎧は既に黄金の輝きを取り戻していたので、余程の工夫をしなければ「ただの牙狼」で終わってしまうと思ったのである。しかも通常の牙狼が90分かけて倒す相手となると、過去に築いてきた諸設定を崩す程の強い敵を出さなければならなくなってしまう。
 だが実際に視聴してみて感動したのだが、この問題はかなり上手に解決されていたのである。「鎧に邪気が溜まったので、鎧を浄化中の中盤は生身で戦う」という論法で、上手に主人公を弱体化していた。これで、黄金騎士と比較すると大して強くない敵を登場させても、映画の尺の時間中に視聴者が退屈する事は回避されたのである。
 序盤に噛ませ犬として登場した雑魚も、過去に同じ立場で登場したエルズやベビルよりも余程魅せてくれた。ただの人間を金で雇う事で、人間を攻撃出来ない魔戒法師に対して優位を確保していたのである。
 なおこの雑魚ホラーの人間体は、口が『闇を照らす者』の陰我ホラーと同様の変形をする。『闇を照らす者』の陰我ホラー達の人間体の口の統一的な特徴の原因は、今まで明かされてこなかった。「Volcityという土地が原因」という説や「監督が違うから」という説もあったが、「雨宮監督が創ったVolcityを舞台としない『闇を照らす者』の直後の話」でもこの特徴が受け継がれた以上、「この時代の陰我ホラーの特徴」と見做すのが正しいだろう。
 中盤で暴れるのは、人型魔導具の阿号である。制作者である双竜(「そうたつ」と重箱読みする)法師の「ホラーのいない世界を作る」という夢を、それこそ機械的に達成するため、ホラーの発生の原因である人類を皆殺しにしようと考えている。
 かつてはより高次の目的のための手段であった「救済」活動が、やがて高次の目的が忘れ去られる事でそれ自体が絶対の目的と化し、そのための手段の選択の基準が「効率」のみになるというのは、大乗仏教のカルト化の典型的なパターンである。
 阿号は神道系の服装の法師を殺し、道教系の印象を持った法師との戦いにも勝利する。そして終盤で阿号がホラーと融合して強大化した際に流れるBGMも読経をイメージしたものであり、「今回の敵はカルト化した仏教」というメッセージが強烈に伝えられていた。
 今迄の『牙狼GARO>』シリーズは、悪役の名前が「メシア」だの「クルス」だの「シオン」だのだったりと、やや仏教至上主義的な傾向が見られたが、オウム真理教によるテロの二十周年の年に創られたせいか、仏教の危険性も指摘する作品に仕上がっていた。