「狂信」には様々な形態がある。
崇拝対象となったテクストを究極的にまで盲信するのも一種の「狂信」であるが、こういう人の行動の成果は、学者のテクスト研究と限りなく接近していく。清朝考証学や国学の研究成果の一部が、今でもアカデミズムにおいて一種の「先行研究」となっているのは、このためである。
こういう人の「狂信」は、「狂おしい程の信心」という意味である。
一方、崇拝対象が主張していない事を勝手に付け加えて、これを崇めるという狂信がある。これは仮に本人が社会的には何らかの教団の内部で活動していようとも、思想的には自分が教祖となって新たな分派を作ったのに等しい。
こういう人の「狂信」は、「狂気に汚染された信仰」という意味であって、決して信心深い訳でもない。実際には崇拝対象となったテクストを斜め読みしている事も多い。
最近ネット上で、「大川隆法の説法はどれも加筆修正無く書籍化されている」という主張を流している幸福の科学の「応援者」のブログを見つけた。
そして応援者氏がいうには、インドでは「説法したことが、そのまま経典になるのは仏陀だけ。」という価値観があるとの事である。
大川隆法氏は出来もしない事を出来ると豪語するタイプなので、これも元来は大川氏本人の主張なのではないかと、当初は疑った。
しかし数日前に大川隆法著『智慧の法』(幸福の科学出版社・2015)という本を読んだところ(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20150525/1432494411)、292ページに「本書は左記の法話をとりまとめ、加筆したものです。」とはっきり書いてあった。
どうやら「大川隆法の説法はどれも加筆修正無く書籍化されている」というのは、応援者氏の独創的なデマだった様である。
件の応援者氏は、先の「狂信」の分類でいえば、後者の事例だった訳だ。
幸福の科学に入信したり信仰を続けたりするのは現行法上自由であるが、こういうデマに踊らされて信仰をしたのではやはり人生の損失であるので、信仰を迷っている人々には「在家の不良信者のデマに踊らされずに教団の主張だけを見極めなさい」と助言しておきたい。
これが本記事を書いた動機の第一である。
また如何に大言壮語で有名な大川氏であろうとも、自分が主張していない能力を勝手に期待された後に勝手に幻滅される等という、理不尽な仕打ちを受けて良い筈が無い。
そうした理不尽な被害から大川氏を救おうと考えたのが、動機の第二である。
- 作者: 大川隆法
- 出版社/メーカー: 幸福の科学出版
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