幸福の科学の「科学哲学」観について

 科学哲学者の高橋昌一郎氏に批判された幸福の科学が、反論らしきもの(http://info.happy-science.jp/2015/13620/)を書いている。
 この反論(?)文を書いたのは「幸福の科学グループ広報局 部長 高間 智生」とのことである。広報「局」の長なら一般に肩書は「局長」とすべきであろうし、広報局の下に複数の部があってその内の一つの部の部長であるならば、何部の部長であるのかを正直に表明すべきであろう。
 いったいどうなっているのかと思い、公式ページで幸福の科学の組織図を学ぼうとしたのだが、そういったものは掲載されていなかった。当初は私の検索能力が低いせいなのかもしれないと思っていたのだが、同様の状況に置かれた人のブログ記事(http://lejaycassismango.blog.fc2.com/blog-entry-27.html)も見つけた。困ったものである。
 この反論(?)の一番おかしな所は、「まとめ・科学哲学のいかがわしさ」である。
 実は「科学哲学はいかがわしい」という主張自体はそれ程突飛なものではない。科学絶対主義に近い科学者や、自分の研究室の方法論に絶対の自信を持っている科学者等からも、そうした声はまま聞こえてくる。科学哲学の方から「そんな方法論で本当にいいのか?」とか「それで証明したと言えるのか?」とか「帰納法は根拠と言えるのか?」とか小煩い声が聞こえてくるのだから、そういう人達が反論したくなるのも当然であろう。
 だが部長(?)高間智生氏は科学哲学が一般に科学万能論への反撃的機能を有しているという事を知らず、更にはせめてウィキペディア程度で良いから「科学哲学」の解説を読んでみるという手間を惜しんだ結果、どうやらそれを「唯物論」と同じ様なものだと思い込んだらしく、「一例を挙げれば、いったい科学哲学者は、世界宗教として20億人が信仰するキリスト教の聖書が奇跡現象のオンパレードであることをどう説明するのだろうか。」と、頓珍漢な発言をしている。
 聖書が奇跡現象のオンパレードであることについて合理的な説明をするのは、宗教学や心理学等の担当分野である。数学や語学や科学哲学がそれを説明する義務はどこにもない。そしてそれを理由に数学や語学や科学哲学をいかがわしいとするならば、そう主張する人間こそいかがわしい。
 それにしても不思議だ。黙っていれば「幸福の科学は高橋を歯牙にもかけなかった」と思い込んでくれそうな信者が大勢いるというのに、彼等は何故わざわざ稚拙な反撃をしてしまうのだろうか?