胡种と胡軫の関係 ついでに李傕の昇進に関して思ったこと

 後漢書王允伝には司隸校尉の「胡种」という人物が登場する。
 王允政権時代の右扶風であった王宏が、李傕政権によって逮捕されると、王宏と仲の悪かった司隸校尉胡种は、王宏を殺してしまう。しかし夢の中で王宏に杖で殴られ、その後すぐに死んでしまったのだという。
 後漢書献帝紀によると李傕は前政権の司隸校尉であった黃琬を初平三年六月に殺しており、また董卓伝の記述と総合するに、同年九月には李傕は車騎将軍になると同時に司隸校尉を兼任しているので、胡种が司隸校尉だったのはこの六月から九月までの一時期ということになる。
 胡种という人物は司隸校尉という高い地位に就任していながら、これ以外の記述に登場しない、謎の人物である。こういう場合は、誰か別の人物の別名・誤記であるか、またはエリートでなかった人物が李傕に多大な貢献をして急に昇進したか、あるいはその折衷的な理由を持っている可能性が高い。
 
 そして三国志張既伝の注で引用された三輔決錄の注によると、司隸校尉の胡軫は游殷と以前から仲が悪かったので游殷を殺すのだが、游殷が鬼を率いて攻めてくる幻覚を見て死んでしまったのだという。
 
 二人の地位と死に様は酷似しているので、同一人物であった可能性が高い。
 
 仮に同一人物でなかったとしても、胡軫の勢力を引き継いだのが胡种であるという可能性もある。
 胡軫は李傕討伐を命じられながらも、李傕に寝返った人物である。単に政権の成立に功績があるのみならず、直属の部隊を持ち、それによって発言力を確保していたであろう。こういう立場の人物が突然死んだ場合に、その部隊を無事に引き継いだ人物は、そのままその後釜になることも多い。
 
 ついでになるが、九月に一気に李傕・郭艴・樊稠・張濟が昇進しているのは、胡軫(・胡种)が急死してその部隊と発言力を四等分に吸収できたからであるかもしれない。
 そしてこういう僥倖があると、その体験は忘れられなくなりそうである。「旧董卓軍の五分の一を率いていたら揚武将軍にされた。しかし胡軫が死んで四分の一を率いる身になった途端に、旧来のエリートたちは俺をより恐れるようになり車騎将軍にした。それなら樊稠も殺してしまえば、大司馬ぐらいにはなれるんじゃないか?」と。