藤村操は「ホレーショの哲学」を理解して使ったのだと思う。

 「英語の"your"には「所謂」という意味もあるぞ。」と教えるついでに、「藤村操の「巌頭乃感」の「ホレーショの哲学」とは、『ハムレット』の"your philosophy"の誤訳だ!」と断言する者が多い。中には「誤訳だ!」を通り越してそもそも意味を理解していなかったとまで断言する者もいる。
 だが私はそうした姿勢に疑問を持っている。
 まずは「巌頭乃感」の全文をwikihttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D#遺書「巌頭之感」・最終閲覧日時は西暦2018年3月19日正午)から引用する。
 「悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」
 まず「宇宙の空間と時間は一個人と比較して巨大だ。」と主張し、次に「ホレーショの哲学は権威としての価値が無い」と主張し、次に「何もかも分からないものだ」と主張をし、次に「だから死ぬと決めた」と主張をし、最後に「ここに至ってやっと安心出来た」と報告している。
 この文脈がしっかり理解出来れば、藤村の「ホレーショの哲学」とは「一切の哲学」を意味しているとしか読み様が無いと思う。
 ホレーショに限定してその思考法に価値を見出せなくても、いきなりそれを理由に自殺したりはしないだろう。哲学全般の力に絶望したからこそ藤村は死んだのだ。
 まさに"your philosophy"の意味を正確に理解していたと言える。
 そこで素直に「所謂哲学竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。」と書かなかったのは、おそらく詩としての語感上の美学と衒学趣味が理由であろう。「一切の哲学の力の限界を語った場面の登場する書物を、俺様は読んだ経験があるぞ!」とアピールしたかったのであろう。これは東アジアの文章作法としてはそう珍しくない行為の筈である。
 因みに、死の場所として選んだ華厳の滝も、衒学趣味が漲っていると私は考える。
 「華厳の滝」は付近に「阿含の滝」・「方等の滝」・「般若の滝」・「涅槃の滝」が存在する事から、天台宗の五時八教説に基いていると考えられている。そして五時八教説における「華厳時」とは、釈迦が高邁過ぎる説法をしていたため、誰もそれを理解出来なかった時期とされている。
 「何もかも分からないので死にます。」という理由で死ぬ場所として、実に見事な選択である。
 このことからも私は、藤村という人はやはりこういう衒学趣味の人だったのであろうと考える。
 勿論、これは一つの解釈であるから、これが絶対の真相だと主張したりはしない。
 しかし、詩を読む力も無ければ仏教の常識も知らず、そして英語だけ多少出来る人が、文脈その他の周辺情報に何らの検討も加えずにいきなり藤村の能力を否定してかかるのを見ると、「五尺の小躯を以て此大をはからむとす」の「此」の意味が、「天壌」・「古今」ではなく「藤村操」になったかの様な錯覚に陥ってしまう。そしてこの時、「小躯」に当たるのが何者であるのかについては、言わぬが花というものであろう。
 
余談
Q.「「巌頭乃感」みたいな詩を書くのは、どんなときだと思う?
1 死をかくごしたとき
2 勝利を確信しているとき
3 なにがなんだかわからないとき」
A.「どれも正解」

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