「日本の民主主義は与えられたものだからいつまで経っても偽物」という見解は、二つの理由から納得がいかない。

 「日本の民主主義は与えられたものだからいつまで経っても偽物」という見解は、様々な文脈で見かけてきたが、一度も納得した事が無い。読者諸氏の中でそういう見解をお持ちの方がいらしたら、以下の私の納得出来ない理由を乗り越える論法を聞かせて欲しい。
 なお、関係無い書き込みが大量に寄せられる事は本意ではないので、念のため言っておくが、本稿は「日本の民主主義はいつまで経っても偽物」という見解全般を問題視したものではなく、あくまで「日本の民主主義は与えられたものだからいつまで経っても偽物」という見解に対するものである。
理由1.そもそも現代の民主主義国に生きる人の大半は、他人に「民主主義を与えられた」人達である。
 民主主義が最も盛んなヨーロッパ諸国を俯瞰すると、大革命が発生していない国も多い。そういう国の人間は、フランス等の成功例を見た時の支配者によって民主主義的傾向を斬新的に与えられたのである。それでも今では非常に民主主義的である。
 また大革命が起きたフランスでも、首都で革命に参加した一部の市民以外は、民主主義を勝ち取ったのではなく、与えられた人々であった筈だ。
 そしてレアケースである「勝ち取った」人々は皆寿命等の理由で既に死に絶え、今の在住者は全員、祖先や原住民から民主主義を与えられた人の筈である。
 そうした中で、何故日本だけ、いかなる努力をしても偽物であるとかいう「与えられた民主主義」になるのだろうか?
 そもそも民主主義の価値とは、今現在それを、どのように、そしてどの程度、維持しているかに拠るべきであって、ロベスピエールマッカーサーが「ガイジンかそうでないか」に拠るべきではないのではなかろうか?
理由2.仮に百歩譲って、「民」の組織的反乱により権力構造が激変した事件のあった地域を領域として包摂する国の民主主義だけが本物になれると認めたとしても、日本には承久の乱がある筈である。
 それでも仮に百歩譲って、その領土内にて大革命の歴史がある事が「ホンモノ」の民主主義の必要条件だと仮定してみよう。
 しかしこの場合も、自らを「民」と規定する鎌倉武士団が当時の正統政府を力で捻じ伏せ、大幅な権利の拡大を勝ち取った「承久の乱」が日本にはある。
 鎌倉武士団の多くは下層民ではなく中・上流層であるが、それはヨーロッパの諸革命の主体とて同じ事である。
 そして仮に理由2のほうで百歩譲って「その革命の伝統をどう維持していったかの方が大事なのだ。」とすると、結局は理由1が復活してしまう。