死ぬ覚悟の無い「ハンストまがい行為」にも意義が有ると思う。問題はその行為を何と呼ぶかだ。(別館からの移転記事)

 ハンストとは、「要求が受け入れられなかったら死ぬぞ。それでもいいのか?」と権力を命懸けで脅す行為である。

 このため、初めから死ぬ覚悟どころか健康を害する覚悟すら無い者が「ハンスト」と称してハンストまがいの行為をすると、社会的に叩かれる。

 かくいう私も、「叩く」側の一人である。

 まず「治者」的観点で言えば、自分が投票所に足を運び、更には時には無償で選挙活動までして選んだ権力が、この程度の脅しに屈したら無念だからである。

 次に「被治者」的観点で言えば、こういうまがい物が増えると、本気でハンストをした人が軽視されたまま死に至る可能性が高まるからである。

 ではこの種の行為に正当性が全く無いのかというと、そういう意見にも組する訳にはいかない。

 「次は本気でハンストをするかもしれないぞ。それどころか今回の途中で気が変わって死ぬまで続けるかもしれないぞ」というタイプの脅しは、本気の脅しと無為無策の中間的な効果の脅しとして意義が有り、選択肢から排除すべきではないからだ。本気の脅しも無為無策も社会的に許されているのに、その中間的な対応が許されないというのはおかしい。

 つまり私は、「ハンストと称してハンストまがい行為をすること」に対して、その「ハンストと称して」の部分のみを問題視しているのである。

 「無抵抗か死か」という極論を、公権力者にも社会運動体内権力者にも許さないためにも、このハンストまがい行為自体を社会的に許容する必要があり、かつそのためには、その行為についての万人受けする適切な名称を考案する事が必要であると考える。