里見紝を読み始めた。まず『ひえもんとり』から。

 二年程前の事だったと思うのだが、谷崎潤一郎による文学論を読んだ。その中で妙に高い頻度で「里見紝」が名指しで批判されていたのが気になった。恥ずかしながら聞いた事の無い名前であったからである。ともかく、同時代には大物として通用したものの後世にはほとんど通じないタイプの作家だったのだろうと適当に想像し、頭の片隅にその名を記憶した。
 その後、図書館等で彼の名を探すと、一時代前の現代日本文学の全集にはしばしば名が連ねられているものの、現在はほとんど省みられていない事が判った。
 最近神奈川近代文学館を訪れた際には(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091101/1257070508)、里見紝関連の映像資料も視聴してみた。そこで里見紝が「長生きだった」事と「後輩への面倒見が良かった」事を学んだ。
 これ等の知識の助力を得て、前述の適当な想像は私の中で徐々にその地位を高めた。複雑に根を張った人脈が生前に現代文学全集から除かれる事態を防いでいたのだろうと、想像が補強されたのである。
 勿論、現代日本の精神こそが「里見紝的なものへの評価が不当に低かった異常な時代」に属している可能性もあるので、古典として生き残れなかったと速断してしまうのは危険な態度だとは思う。
 ただもしそうであるとしても、時代の精神が再び彼の文学と相性が良くなるまで知名度を維持出来るかという問題がある。
 一昔前と違い、インターネットの発達により、著作権が切れた作家の知名度の維持における優位は圧倒的なものがある。しかも近年では著作権の保護期間の延長の機運すらある。彼の文学がネット上で無料で読める日は遠く、それだけ再発見への道が狭められている事になる。
 生前には「生きている白樺派」という骨董としての価値をもたらした長命が、死後には著しく不利に機能している事になる。
 上記の思考の結論として、とりあえずは自分からは読まないという決断をするのは、限られた時間を生きる人間にとっては「偏見」という知恵の優れた使用法である。
 だがこういう時、私は寧ろ好奇心を刺激されてつい手にとってしまうのである。
 
 最初に読んだのは『ひえもんとり』(1917年4月発表)という短編である。
 これを選んだ動機は、単に借りた本に収録されていた中で一番短かったからである。いくら私でも無限に時間を無駄にする気はない。被害を受けるにしても最小限に留めたいと思う程度の合理性はある。
 江戸時代の南方の藩を舞台とした、薬として価値のある死刑囚の生胆を奪い合うという内容のものであった。
 氏家幹人著『大江戸残酷物語』(洋泉社・2002)を読んでいたので特に驚かなかったが、そうでなければ日本にもこうした風習があった事を信じられなかったかもしれない。
 列強が明治維新政府を通じて間接的に強要した「近代」を自明のものとして育っていたなら、ここに淡々と描かれた日本男子の「野蛮」な行為と、それを恥じない精神構造の「野蛮さ」に度を抜かれたかもしれない。私に限っては前述の通り妙な方面で博学だったため、著者の冷静な筆致も単に面白みの無い事実を書き連ねただけのものに見えてしまった。
 「犠牲者」である死刑囚の内面については、異様な雰囲気の見物客の存在への疑問が少しだけ描かれて終わっている。彼は自分の死体をめぐってどんな乱闘が起きるかも知らないまま、騒ぐ事も無く普通に死んでいく。
 敢えて私の好みを言うなら、死刑囚を二人登場させて欲しかった。最初の一人が無残に群集に解体され、それを見ていた二人目はを冷やす。そして一人目から胆を入手出来なかった連中が、一人目の時以上に興奮して二人目を見つめている有様と、その視線を浴びて苦しむ二人目を描けば、かなり(私にだけ)面白い作品に仕上がっていたと思う。
 ともかく、あまり面白くはなかったものの、面白くない理由が私の側にあったので、まだ投げ出さない事にした。明日は二番目に短い作品を読んでみる。

大江戸残酷物語 (新書y)

大江戸残酷物語 (新書y)