「遺族の感情」を根拠にした死刑存置論は、大概の場合、漠然としている。

 しばしば死刑廃止論者からも「有力」とみなされる、「遺族の感情」を根拠にした死刑存置論だが、大概の場合は底が浅く、練られていない。
 そもそも一口に「殺人事件の遺族」といっても、多種多様な性向を持った個々人である。犯人がどんな目に遭えば一番爽快感を味わえるかは、各人によって違うだろう。
 ある遺族は、確かに犯人が死刑になる事を望むかもしれない。だがその希望者たちも、子細に事情を尋ねれば、絞首・斬首・銃殺・薬物中毒死の、どれが一番爽快に感じるかは、多種多様であろう。中にはハンムラビ法典原理主義者みたいなのがいて、かなり特殊な死に様や、運次第ででは生き延びるメニューを所望してくるかもしれない。
 またある遺族は、犯人が無期懲役囚として散々単純労働をして死んでいくのを望むかもしれない。
 また犯人の能力によっては、単純作業に従事するよりは高度な労働をして高い賃金を得た上で、それを渡してくれる事を望む遺族もいるだろう。
 こういう話をすると、多少とも話の通じる「遺族の感情」論者は、「よし分かった。昨日までの私は単純だった。死刑は存置した上で、犯人を具体的にどんな目に遭わせるかは、遺族の意見がより重視される制度を作っていこう。この制度のせいで死刑判決が減っても望むところだ。」と「転向」をしてくる事が多い。
 だが私はこれにも不満がある。
 どこからどこまでが「遺族」なのか、そして遺族同士で意見が割れたらどうするのか、それについてのルールがはっきりしていないからだ。
 それについて尋ねた所、まともな返事をされた事が一度もない。
 仕方が無いので、私が仮に「遺族の感情」論者に代わって、公正なルールを作ってみた。
 「殺人事件の犯人の処遇について、判決を左右出来る「遺族」の範囲は、民法の相続の規定に準じる事とする。発言権の割合も相続に準じる。話し合いと投票の結果、一位を獲得した処遇が二つ以上あった場合には、その範囲で裁判官と裁判員が自由に処遇を選べる。」
 だがこれでは、被害者に死なれて悲嘆にくれた恋人や同僚の感情は完全に無視され、長年対立していて「殺されてざまあみろ」と思っていた親類の感情が重視される事になる。
 殺人狂と遺産相続人の間で、「必ず一番軽い刑を選んでやるから、オヤジを殺せ」という密約が成立するかもしれない。殺し屋を雇った場合と違って金という証拠が無いので、この計画を警察が見抜くのは至難である。
 「遺族の感情」を死刑存置の根拠としている人は、もう少しその理論を練って欲しい。
 「練ったぞ。」とか「もう既に練ってある。」という人の試案もお待ちしている。