幸福の科学による、警察からの感謝状の改竄事件に関して、忘れられがちなことを二点指摘したい

 本日も時間がないのでリンク貼りが中心。

 幸福の科学による、警察からの感謝状の改竄事件に関して、忘れられがちなことを二点指摘したい。

※感謝状改竄事件とは?

 この警察からの感謝状の改竄事件自体を知らないかたも多いと思うので、その説明からする。

 幸福の科学は長らく、「幸福の科学の活動は警察や国家公安委員長から感謝された」などと主張して、警察からもらったとかいう感謝状らしきものをネット上にばらまいてきた。

 たとえば2016年3月17日には、「ファクト」という媒体で「地下鉄サリン事件から21年―オウム事件はどのように解決したのか?」という記事を書き、そこに感謝状らしきものを掲載している。

 当該記事のページはこちら→https://thefact.jp/2016/1588/

 魚拓も念のため貼っておく→https://megalodon.jp/2021-0226-1139-42/https://thefact.jp:443/2016/1588/

 ついでになぜ幸福の科学問題で魚拓が必要なのかについては、こちら→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20130809/1375982964

 この感謝状の写真(?)については、記事の見出しでは「幸福の科学の活動は警察や国家公安委員長から感謝された」となっているのに、発行主体が大崎警察署長であるという点でも問題があるのだが、本当の問題はそこではない。感謝の対象が抹消される事で感謝状全体が改竄されている事にこそ問題がある。

 詳細はアルゴラブ氏のこの記事で→http://algorabarchives.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

 のちに退会して教団と対立することになる職員の一人が、事件当時に個人の活動の結果としてもらった感謝状を、あたかも教団の活動の成果であるかのように見せかけていたというのが真相との事である。

※忘れられがちな下着強盗事件との均衡

 さて、アルゴラブ氏の記事にもあるように、良心を捨てきれていない比較的良質な信者は、改竄される前の感謝状の写真を自派の宣伝に使っているようである。

 そういう信者をアルゴラブ氏は「こういう自爆を見ていると、いっけん教団への信仰篤き外目とは裏腹に、良心の呵責から無意識の領域で教団への不信、批判があるのではないかと感じますね。G Jでした」と称賛している。この点についても私は同意である。

 ただ話をここで終わらせてしまっては、やはり不手際であると思うのである。

 そういう良質信者に対しても、「当時教団内にいた一職員の個人としての反オウム真理教活動の功績を誇り続けるならば、当時教団内にいた一職員の個人としての下着強盗活動の罪悪を謝罪し続けよ」と追い打ちをかけるべきである。

 下着強盗事件の詳細については、同じくアルゴラブ氏のこの記事にて→http://algorabarchives.blog.fc2.com/blog-entry-36.html

 もちろんこのダブスタについては、反幸福の科学の活動家たちも気を付けるべきである。当時教団内にいた一職員の個人としての反オウム真理教活動の功績を教団とは無関係なものと見做すのであれば、当時教団内にいた一職員の個人としての下着強盗活動の罪悪も教団とは無関係なものと見做し、アルゴラブ氏のようにあくまで大川隆法に霊能力が無い事の証拠としてのみこの下着強盗事件を使うべきである。

※忘れられがちな大川隆法氏のオウム関連の功績

 さて、教団自身が改竄感謝状を用いて主張するような功績は教団にはないということになったわけだが、教団自身が主張しない隠れた功績が大川隆法氏にはある。これはやはり忘れないでやるのが公平というものであろう。

 それは、オウムに殺されそうになったという事自体である。

 オウムによる暗殺対象が一人増えたという事は、オウムの対一般人攻撃の費用と労力がそれだけ削られたという事を意味する。

 大川隆法氏がこの世にいなければ、地下鉄サリン事件の被害者は数名増えていたかもしれない。

 この点については私は忘れずに感謝している。

 この論法を使うと池田大作氏の功績も大きいという事になるので、幸福の科学にとっては痛し痒しかもしれないが。

強力なタブーは、逆にタブーであると認識されにくい。「魑魅魍魎」の言い間違いについて。

 事情により手短に。

 あるアイドルが「魑魅魍魎」の読み方を知らずに、ある別の単語と同じ発音をしてしまい、活動の自粛に追い込まれたらしい。

 この件で自分の世界観を問い直して欲しい方々が二種類いる。

 欧米において「弱者」とされた人への配慮として生まれたタブーの力が日本では弱いことをもって、「日本は欧米よりポリコレが弱いので、自由だ」と決めつけている人達と「日本は欧米よりポリコレが弱いので、遅れている」と決めつけている人達の、計一種類計二種類である。

 大概の地域には何らかのタブーがあるのだが、自分の周辺こそが世界の模範だぐらいに考えている身勝手な者は、そのタブーを無自覚に普遍的真理であると思い込みやすい。そしてタブーが強烈であればある程、その罠に陥りやすい。

 本当に日本はポリコレが弱い国なのか、それともタブーとされる発言が欧米と違うだけなのか、その中間なのか、しっかり考え直して欲しい。

※類似記事その1→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20111114/1321222394

※類似記事その2→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20170410/1491752080

「それでもスターリンにはナチス討伐の功績がある」という意見に反対する。

 以前、「「ナチス専制を倒したから、スターリン専制は正義だ。」と思っている人は、日本でもかなり減ってきた」と書いた*1が、スターリンを批判しつつ「それでもスターリンにはナチス討伐の功績がある」という意見ならば、まだまだよく聞く。

 その根拠としてしばしば出されるのが、他国のそれと比較したソ連の戦死者の多さである。西側が自国兵が死なないように不真面目に戦っている頃、東側は真面目に戦ったとかいう論法である。

 だが私はその部分肯定の意見にすら賛同できない。

 ソ連の兵士が大量に死んだのは、スターリンが優秀な指揮官を粛清しまくったからであろう。

 大粛清がなければもっと効率的に戦えただろうし、さらにいうとナチスもそれを恐れてそもそもソ連と戦おうとすらしなかったかもしれない。そうであればユダヤ人の東方への強制移住計画も少なくともあのような形では実行されなかったであろう。

 だから独ソ戦の直接的・間接的な犠牲者たちの多くは、ヒトラースターリンによって挟み撃ちにあったようなものである。

 ここまでの文章は「スターリンへの評価を零点にしたくない」という方々には不愉快極まりないものであろうが、ここから徐々に愉快になっていくので最後まで読んでほしい。

 「攻め込まれた側を絶対正義とみなしてそこで思考を中断すると、歴史から得られる教訓は少なくなる。攻め込まれた側にどんな問題があったかを冷静に分析すべきだ」というこの私の主張は、スターリンが攻め込む側であった戦争にも平等に適用されるべきだと私は当然に考えている。

 その一例が映画『カティンの森』の感想記事*2である。

 また、アメリカとの戦争に熱中し過ぎて北方の防備をおろそかにしたせいで、スターリンに日ソ中立条約を一方的に破棄されて侵略を受けた大日本帝国は、まさにヒトラー独ソ不可侵条約を一方的に破棄されて侵略を受けたスターリンの二の舞であるともいえる。

 これらの件でスターリンを憎むだけでは、それは何の進歩もない感情で終わってしまうだろう。

 「戦争の反省」をするときには、加害者としての責任を問うだけでなく、被侵略者側として同胞を守り切れなかったことについても当時の日本政府のあり方を批判的に検討すべきであろう。

生存報告を兼ねて、コンタロウ著『プロレス鬼』の紹介

 コンタロウ著『プロレス鬼』という短編集がある。西暦2021年1月19日現在、「スキマ」などのサイトで合法的に無料で読むこともできる。

 本日はこの書の表題作となった短編「プロレス鬼」を紹介する。短編でコマも大きいというのに、意義深い内容なのである。

 まず最初のページ、三人のプロレスラーが並んだ一枚の写真が紹介される。彼らは紹介文によると「日本プロレスの 生みの親 鬼道山」と「番場正平」と「伊能完至」の三人である。

 どう見ても、力道山ジャイアント馬場こと馬場正平アントニオ猪木こと猪木寛至の三人がモデルの作品である。直球中の直球である。

 ここからは数十ページにわたり、『ジャイアント台風』や『プロレススーパースター列伝』などの梶原作品で「正史」として世に広まっていた物語の焼き直しが描かれる。

 すなわち、馬場は力道山に贔屓されて猪木は虐げられたという話である。

 ときおり鬼道山の相撲への恨みなどの暗黒面が描かれる。

 そして終盤、鬼道山は史実の力道山と同じくヤクザに刺されて死ぬ。

 鬼道山に活躍の邪魔をされなくなった伊能完至の名声はすぐに番場正平に追いつくが、鬼道山の遺影の前で二人だけの試合をしたところ、引き分けに終わってしまう。

 七光だけのレスラーに見えた番場は、ちょうど伊能と同じく必死に特訓をしていたのである。しかも番場は番場で伊能こそが鬼道山に贔屓されていると思い込んでいたのである。

 誤解を解きあった二人は、二人への扱いは互いを競争させ伸ばすために仕組んだ鬼道山の策だったという結論に、いったんは達する。死してなお五年も二人を操り続けることで、自分が創始したプロレス界を発展させたというそのやり口を、「鬼」と二人は評する。

 ここまでならほぼ梶原作品群の踏襲であり、力道山のやり口への批評がほんの少し辛めというだけである。

 だが本当に凄いのはここからの数ページである。

 番場に次いで伊能がアメリカで取得してきたベルトを鬼道山の遺影に捧げると、その遺影がまるで拒絶の意思を持ったかのように床に落ちるのである。

 ここで、ヤクザに刺された後にあえて養生をサボって死んでいった、あの力道山の不審死の新解釈が語られる。

 彼は本当に体格に恵まれた後輩たちを嫉妬しており、成長した彼らが老いた自分を抜くのを怖れ、全盛期のうちに意図的に死んだのではないか、という解釈である。

 最後のページは最初のページと同じ写真の紹介であり、紹介文だけが異なっている。

 左右の二人が「ジャイアント・番場」と「アントニオ・伊能」の若き日の姿と紹介されたのち、「真中の男は その師にあたる ……たしか 鬼道山とかいう 相撲出身のレスラーである」と書かれているのである。

 同じ写真の紹介文の語り手の世代が代わり、力道山より馬場と猪木の知名度が高まった現代という現実を突きつけることで、そういう未来を見ることを死ぬよりも恐れた「プロレス鬼」の悲哀が浮き彫りになっているのである。

 これ程見事な構成の短編漫画は珍しい。

 そしてこの作品の「凄み」を真に理解するには、日本のプロレス史のみならず、梶原を通じたプロレスの受容史まで知らなければならない。

 「ジャイアント・馬場」の苗字を単に「馬場」に似た苗字ではなく敢えて「番場」にしたのも、やはり梶原作品である『侍ジャイアンツ』の番場蛮を意識してのことであろう。つまり「まず梶原の「正史」を踏まえてから読むべし」という作者からのメッセージである。

 これはもっと多くの人に知られるべき漫画であると思う。

ジャイアント台風1

ジャイアント台風1

 
侍ジャイアンツ 1

侍ジャイアンツ 1

 

【桑田次郎追悼記念記事】 桜井一著・桑田次郎画『完全犯罪ゲーム』(西東社・1985)

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 後述する面倒な計算をする時間がなくて後回しにしすぎてしまったが、今回は桑田次郎追悼記念記事である。

 この『完全犯罪ゲーム』という作品は、運がらみの要素も強く、推理物のゲームブックとしてはつまらない部分もある。

 しかしどのページにも必ずしつこく桑田次郎の絵が掲載されているので、桑田次郎ファンとしては入手しておきたい一冊だ。

 なお文章を担当した桜井一とは後年小説家としてデビューする風間一輝の本名であるので、風間ファンにも薦めたい。

 ちなみに主人公の名前は「風間吾郎」であり、この時代から「風間」姓を気に入っていたことがわかる。

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 ハッピーエンドは143~146ページに掲載された四種類である。ただし146ページのエンディングだけは、友人を一人失っての勝利なので、満点とはいえない。また143のエンディングのみ三種類のルートから到着できるので、いかにも平凡な勝利という雰囲気がある。

 ちなみにバッドエンドも、刑務所に収監されるだけですむものもあれば、死んでしまうものもある。

 ランダムに選択肢を選んでいった場合、143に着く確率は13/4096(1/512 + 1/1024 + 1/4096)、144に着く確率は1/8192、145に着く確率は1/512、146に着く確率は1/8192である。合計すると11/2048の成功率の犯罪であり、相当難易度の高いゲームブックである。

 なお出口の二つある迷路を解かせて出た位置に従うしかないというページもあるので、いかに著者と相性のいい犯罪の天才でも完全犯罪を成し遂げるのは難しい。

 試みに犯罪の天才が自由選択の場面では完全にゲームオーバーを回避したと仮定した場合、143に着く確率は7/64(1/16 + 1/32 + 1/64)、144に着く確率は1/64、145に着く確率は1/16、146に着く確率は1/32である。合計すると7/32であり、これでもかなり難易度が高い。

 一直線にランダム要素の一番少ないゴールを目指した場合ですら、二度の確率50%の壁を越えなければならないので、完全犯罪の成功率は1/4である。

「新サクラ大戦 the Stage」(ネタバレあり)

 「新サクラ大戦 the Stage」*1を鑑賞してきました。

 旧作の舞台になかった新しい特色は、ゲームのシステムの一部導入でした。

 LIPSにより全9公演の内容は毎回異なる仕組みとなっており、かつ一部のLIPSは観客自身が拍手の大きさにより選べるようになっていました。

 また神山誠十郎は声でしか登場せず、かつ観客の視点が神山の視界になっている場面も多々ありました。

 あとシリーズ恒例の、アニメに類似した「次回予告」も取り入れられていました。

 自分はこうした新しい試みを知らないまま劇場に行ったので、とりわけ嬉しいサプライズとなりました。

 お世辞抜きで、過去最高でした。

 なおブルーレイは来年3月26日発売らしいので、本記事の題名の「(ネタバレあり)」はそれ以後に削除します。

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久々に出来た生甲斐

 私は未成年のある時期に生甲斐を喪失し、そこからは自己の知識欲を満たすだけの日々を過ごした。酒で言えばアル中のようなものであった。

 やがて様々に学んできたものが、仏教の中の科学と矛盾しない範囲内の部分と結合し、一気に悟りを得た。

 その数年後に西に住む弟弟子の離婚問題に関わるようになり、これを余生の使命とするようになった。

 なお数箇月前に実家で発生した問題の処理のため、一時的にそれが最優先事項となっている。

 ここまでがこのブログで語ってきた自己である。

 そんな私だが、一大プロジェクトを立ち上げる事となった。先週の金曜日、ある友人との会話の中で決まった事である。

 長年「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」であり数年前から「知識もいらぬ人」になっていたが、このプロジェクトの完遂のため、それに奉仕する範囲内で外面は俗人に類似した行動を採る事になりそうである。

 黒澤の『生きる』との違いは、このプロジェクトには十年以上かかる事と、私が二十年後も生きている可能性が高い事である。言うなれば間延びしてメリハリが無く映画としては詰まらない『生きる』である。

 ただし「 修身斉家治国平天下」の順は守るべきなので、今は実家の問題が最優先である。

 また先約を守ってこその人間であるので、西の弟弟子の問題の方が優先であり、それと矛盾しない範囲内での努力となる。

 なのでこの生甲斐は、第三優先課題であり、来年辺りに第二となり、数年後に第一となる。

 結局何が言いたかったかというと、このブログの更新頻度がかつての輝きを取り戻す様な日は、最低十年間ぐらいは来ないという事だ。

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