【自動更新記事】 幸福の科学の映画『神秘の法』が『DEATH NOTE』経由で大川隆法を批判しているという私の説の可能性が、今年の春からさらに高まる。

注・この記事は自動更新させたものなので、「生存報告」を兼ねていません。私がもう死んでいる可能性は十分に理解して下さい。

 まずは以前私が書いた「『神秘の法』と『DEATH NOTE』はこんなに似ている!」という記事を御覧頂きたい。

 時間の無い人のために要約もしておく。

 八年半以上前に作られた幸福の科学の映画『神秘の法』であるが、この内容が『DEATH NOTE』酷似しており、かつそもそも『DEATH NOTE』が教団の歴史に酷似しているので、教団内の傍流派が「大川隆法夜神月みたいな奴だから、このままでは似たような末路を辿るであろう」と教祖率いる教団主流派をあてこすっている可能性が高いという内容である。

 さて、次にかつて幸福の科学の映画部門で「大川宏洋(おおかわ ひろし)」名義で有力者であった宏洋氏のこのツイートを見て頂きたい。

 なんとホストをやるときの源氏名「夜神ヒロシ」だというのである。

 これは「大川≒夜神」というメッセージである可能性が高い。

 現在の幸福の科学は積極的に宏洋氏を批判している。だからこそ氏に興味を持つ信者は多い。よって「旧大川宏洋は、夜神ヒロシを名乗った」という情報が頭にこびりついた信者は多いだろう。

 そういう信者が「さて今日は映画『神秘の法』のDVDでも観なおすか」となった場合、「大川は夜神」情報とあいまって、『DEATH NOTE』経由の暗号に気づくかもしれない。完全には気づかなくても、潜在意識に何か残るかもしれない。

 まさにサブリミナル効果である!

【自動更新記事】 京都アニメーション放火殺人事件に関してあまり語られない、「表現行為への暴力による挑戦」という視点について。

注・この記事は五月中に書いたものを自動更新させたものなので、「生存報告」を兼ねていません。私がもう死んでいる可能性は十分に理解して下さい。

 このブログは推定無罪の原則を重視する方針であるため、「自分こそが犯人だ!」と主張している者についても「犯人かもしれない」という態度で臨む。記事の本題も、自称犯人たち自身を責めることではなく、彼らの「語られ方」についての風潮を問題視している。そういう意味では、森祐喜氏と浜田幸一氏の逮捕の直後に書いた記事*1に似ている。

 京都アニメーション放火殺人事件について、現在治療中のA容疑者を犯人だと決めつける論者も、「仮にA容疑者が犯人だったとしたら」という仮定の下で語る論者も、その多くが見落としている視点がある。

 それは、仮にA容疑者が動機を正直に語っていた場合、あれは「表現行為への暴力による挑戦」だということである。

 「表現行為への暴力への挑戦」としては、今までは朝日新聞阪神支局襲撃事件が有名だったが、これは三つの理由から本来はもう歴史の彼方に消えてもいいぐらいの件になったとすら評せる。

 第一の理由は、犠牲者数である。

 京アニは36名死亡33人負傷、阪神支局は1名死亡1名負傷である。

 第二の理由は、被害者が強者か否かという問題である。

 以前の記事でも書いたが、インターネットが流通する以前はマスコミの言論は「強者の言論」であり、合法的かつ効果的な抵抗というものはほぼ不可能だった*2

 加えて、新聞社を敵に回すと捜査のプロの警察と取材のプロの記者に挟撃されることになり、逃亡は非常に困難となる。

 よって仮にA容疑者と自称「赤報隊一同」の両者がどちらも真犯人であった場合、A容疑者のほうが二重の意味でより卑怯だということになる。過去記事の表現を流用するなら、「極悪人」と「悪人」の差である。

 第三の理由は、推定無罪の問題である。

 A容疑者は裁判こそまだ終わっていないが、身柄を確保され「京アニの表現は、俺のアイディアの剽窃だから、殺した」という動機を語っている。かつ、このまま裁判が順当に終われば、ますます彼を犯人と決めつけることの問題性も減るだろう。

 一方、「朝日新聞の表現は、俺達にとって気に食わないので、殺した」という動機を手紙で語った自称「赤報隊一同」とやらは本当に真犯人と同じグループだったのかも不明であり、真犯人が実はまったく別の理由で支局を襲撃した可能性も残っている。かつ、もう時効で裁判はできない。

 以上三つの理由から、「表現行為への暴力による挑戦」を語る際に挙げるべき事例としては、朝日新聞阪神支局襲撃事件よりも京都アニメーション放火殺人事件のほうが原則として適切であることが、わかっていただけたと思う。

 さて、ここで「それではなぜ、京都アニメーション放火殺人事件は「ペン対剣」の観点ではあまり語られないのか?」が問題となる。

 理由は色々あると思うが、おそらく最大の理由は「人口に膾炙してきたとはいえアニメーションの表現は馬鹿にしている者がまだ多過ぎ、権威が低下してきたとはいえ新聞の表現は尊敬している者がまだ多過ぎる」ということであろう。

 フェミナチが合法的手段やせいぜい侮辱罪程度の手段でアニメの表現規制を叫ぶと、「アニメ表現も大事だ!」と反論をしてくれる人が日本には相当数居る筈なのだが、そういう人達の多くですら、「ペン対剣」の話題となると京アニ事件の約36分の1の規模の小事件のほうを先に事例に出してしまったりするのである。

 おそらく彼等の大半は本気でアニメの表現を大事にしているのではなく、「アニメは新聞に比べると劣った価値しかない表現だが、フェミナチの敵なら一応は味方だ」程度の意識で騒いでいるのであろう。

一応二ヶ月経ったので生存報告と緊急事態の延長 兼 大川宏洋(現、「宏洋」)離反後も、幸福の科学の映画部門における反主流派の気骨は衰えず?

1.生存報告とさらなる苦難

 「二ヶ月経ったら復帰できる」みたいな宣言をしてしまったものの*1、まともに帰宅できる日はもっと遅くなりそうです。すみません。

 国も緊急事態宣言を延長したので、私も延長です。

 下の記事や、今後自動更新される幾つかの記事は、出先で少しずつ書いたものです。

2.幸福の科学の映画部門における反主流派の動向

 前にも謝罪した通り*2、私は幸福の科学が組織ぐるみでウィルスを蔓延させるまで、教団本体への監視はかなり肩の力を抜いていた。

 肩の力を抜いた事は全くのマイナスではなく、「教祖の著作はクズばっかりだけど、映画だけはそこそこ面白いじゃん」という公平な感想も持つことができ、そこから「映画部門には教団の良心のような人がいて、主流派の暴走を皮肉を込めて批判している」と気付けた。

 そしてそこからさらに映画部門の有力者である大川宏洋(現、「宏洋」)の離反を予言し、見事に的中させた*3

 ただし、「流石に宏洋の離反後は映画部門は主流派の支配するところとなったのだろう」と決め込んでいた。

 だがそうとも限らないということを最近知った。

 なんと今回の幸福の科学の映画『美しき誘惑-現代の「画皮」-』では、主人公である政治家が応援演説をした候補者の名前が、地下鉄サリン事件の実行犯の一人と同姓同名だというのである。詳細は「慈愛の塊」さんのこのツイートを御覧頂きたい。

 これが大川隆法自身が国民に向けて発した「そろそろうちも散布するぞ!」という脅しであった可能性もある。

 しかし映画部門における反主流派がこっそりと「うちの教団、コロナウィルスを蔓延させてしまい、もう末期のオウムそのものです。警察は教祖を早く止めてやって下さい」というメッセージを仕込んだ可能性もある。

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現実の友人諸氏と読者諸氏へ

 現実の友人諸氏へ。

 今日から二ヶ月間、緊急の電話やメールなどを頂いても、奇跡でも起きない限り応答できません。

 読者諸氏へ。

 今日から二ヶ月間、いかに論理的なコメントを頂いても、奇跡でも起きない限り掲載できません。

 ご迷惑お掛けします。

他の条件が同じなら、日本の民主主義への相対評価が高い人程、熱意の面でも能力の面でも、民主主義を護りやすいという話。

 「日本の民主主義を護りたい、あわよくば強化したい」と息巻いている人は、一般に日本の民主主義への相対評価が低い。

 この見かけの相関関係により、「日本の民主主義はX国より劣っているぞ!」と方便でもいいから言い触らせば、より民主主義擁護運動が盛んになると思い込んでいる人も多い。

 しかし「日本の民主主義を何とかしなければならない」という使命感と本当に因果関係があるのは、常識的に考えて日本の民主主義への絶対評価の低さのほうであろう。

 そして絶対評価が低いと相対評価も低くなりがちなので、見かけの相関が生じるというわけだ。

 むしろ絶対評価が同じ人同士ならば、日本の民主主義への相対評価が高い人程、民主主義を熱心に護りやすいだろう。

 なぜなら外国を低く評価している者ほど、「いざという時の逃げ場が少ない。逃げても大して幸福になれない」という背水の陣が敷かれた状態なので、仕方なく日本に留まって日本を改善していこうという気分になりやすいからである。

 また日本の民主主義の相対評価が低い人は、熱意だけでなく能力面でも問題がある。アメリカなどの大して手本にならない国でも「一応は日本よりマシなお手本になる」と思い込み、本当に先進的な民主主義を導入しようとしている真面目な活動家の足を引っ張りやすいからだ。(参照→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/2019/09/25/084717

 つまり見かけの相関にだけ着目して「日本の民主主義はX国より劣っているぞ!」という方便の宣伝をしていた者は、本人の内心はともかく、実態としては日本の民主主義を弱体化していた事になる。

幸福の科学による、警察からの感謝状の改竄事件に関して、忘れられがちなことを二点指摘したい

 本日も時間がないのでリンク貼りが中心。

 幸福の科学による、警察からの感謝状の改竄事件に関して、忘れられがちなことを二点指摘したい。

※感謝状改竄事件とは?

 この警察からの感謝状の改竄事件自体を知らないかたも多いと思うので、その説明からする。

 幸福の科学は長らく、「幸福の科学の活動は警察や国家公安委員長から感謝された」などと主張して、警察からもらったとかいう感謝状らしきものをネット上にばらまいてきた。

 たとえば2016年3月17日には、「ファクト」という媒体で「地下鉄サリン事件から21年―オウム事件はどのように解決したのか?」という記事を書き、そこに感謝状らしきものを掲載している。

 当該記事のページはこちら→https://thefact.jp/2016/1588/

 魚拓も念のため貼っておく→https://megalodon.jp/2021-0226-1139-42/https://thefact.jp:443/2016/1588/

 ついでになぜ幸福の科学問題で魚拓が必要なのかについては、こちら→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20130809/1375982964

 この感謝状の写真(?)については、記事の見出しでは「幸福の科学の活動は警察や国家公安委員長から感謝された」となっているのに、発行主体が大崎警察署長であるという点でも問題があるのだが、本当の問題はそこではない。感謝の対象が抹消される事で感謝状全体が改竄されている事にこそ問題がある。

 詳細はアルゴラブ氏のこの記事で→http://algorabarchives.blog.fc2.com/blog-entry-126.html

 のちに退会して教団と対立することになる職員の一人が、事件当時に個人の活動の結果としてもらった感謝状を、あたかも教団の活動の成果であるかのように見せかけていたというのが真相との事である。

※忘れられがちな下着強盗事件との均衡

 さて、アルゴラブ氏の記事にもあるように、良心を捨てきれていない比較的良質な信者は、改竄される前の感謝状の写真を自派の宣伝に使っているようである。

 そういう信者をアルゴラブ氏は「こういう自爆を見ていると、いっけん教団への信仰篤き外目とは裏腹に、良心の呵責から無意識の領域で教団への不信、批判があるのではないかと感じますね。G Jでした」と称賛している。この点についても私は同意である。

 ただ話をここで終わらせてしまっては、やはり不手際であると思うのである。

 そういう良質信者に対しても、「当時教団内にいた一職員の個人としての反オウム真理教活動の功績を誇り続けるならば、当時教団内にいた一職員の個人としての下着強盗活動の罪悪を謝罪し続けよ」と追い打ちをかけるべきである。

 下着強盗事件の詳細については、同じくアルゴラブ氏のこの記事にて→http://algorabarchives.blog.fc2.com/blog-entry-36.html

 もちろんこのダブスタについては、反幸福の科学の活動家たちも気を付けるべきである。当時教団内にいた一職員の個人としての反オウム真理教活動の功績を教団とは無関係なものと見做すのであれば、当時教団内にいた一職員の個人としての下着強盗活動の罪悪も教団とは無関係なものと見做し、アルゴラブ氏のようにあくまで大川隆法に霊能力が無い事の証拠としてのみこの下着強盗事件を使うべきである。

※忘れられがちな大川隆法氏のオウム関連の功績

 さて、教団自身が改竄感謝状を用いて主張するような功績は教団にはないということになったわけだが、教団自身が主張しない隠れた功績が大川隆法氏にはある。これはやはり忘れないでやるのが公平というものであろう。

 それは、オウムに殺されそうになったという事自体である。

 オウムによる暗殺対象が一人増えたという事は、オウムの対一般人攻撃の費用と労力がそれだけ削られたという事を意味する。

 大川隆法氏がこの世にいなければ、地下鉄サリン事件の被害者は数名増えていたかもしれない。

 この点については私は忘れずに感謝している。

 この論法を使うと池田大作氏の功績も大きいという事になるので、幸福の科学にとっては痛し痒しかもしれないが。

強力なタブーは、逆にタブーであると認識されにくい。「魑魅魍魎」の言い間違いについて。

 事情により手短に。

 あるアイドルが「魑魅魍魎」の読み方を知らずに、ある別の単語と同じ発音をしてしまい、活動の自粛に追い込まれたらしい。

 この件で自分の世界観を問い直して欲しい方々が二種類いる。

 欧米において「弱者」とされた人への配慮として生まれたタブーの力が日本では弱いことをもって、「日本は欧米よりポリコレが弱いので、自由だ」と決めつけている人達と「日本は欧米よりポリコレが弱いので、遅れている」と決めつけている人達の、計一種類計二種類である。

 大概の地域には何らかのタブーがあるのだが、自分の周辺こそが世界の模範だぐらいに考えている身勝手な者は、そのタブーを無自覚に普遍的真理であると思い込みやすい。そしてタブーが強烈であればある程、その罠に陥りやすい。

 本当に日本はポリコレが弱い国なのか、それともタブーとされる発言が欧米と違うだけなのか、その中間なのか、しっかり考え直して欲しい。

※類似記事その1→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20111114/1321222394

※類似記事その2→https://gureneko.hatenadiary.org/entry/20170410/1491752080